イジワル上司に恋をして
「今日、残業よろしく」
――んなっ……!
アイツは、最後までにこりと笑顔を西嶋さんに向け、腹立たしいほど優雅に歩き去る。
その憎らしい背中を睨みつけて、爪を手のひらに食い込ませた。
アイツ……! 絶っっ対、聞こえてて、『残業命令』してる!
事務所に入る去り際に、ちらっとこっちを見て嫌味ったらしく片方の口を吊り上げたから間違いない!
目の前で、妄想していたはずの喜ばしいことが現実に起こってると言うのに、わたしの意識は全部黒川に持ってかれていた。
「今の人、上司? かっこいいね」
「えっ!! あ! は、はぁ」
そうだ! 目の前にはまだ西嶋さんがいるんだった!
慌てて顔を前に戻し、作り笑いを浮かべる。
「かっこいい」だなんて言われても、肯定したくないわたしは、曖昧な返事と微妙な笑顔で聞き流す。
「今日は忙しそうだね」
「え? あ……」
そうだった……! せっかく! せーっかく誘ってくれたのに!
しかも本当は残業なんてなかったのに! あんの、性悪男がっ!
「仕事中なのに、ごめんね。じゃ、おれも戻んなきゃだから」
ニコッとさりげなく白い歯を覗かせて、ゆっくりと背を向けていく西嶋さん。
ああー! わたしの夢のような時間が終わっちゃう……。本当はまだ、この続きが楽しめそうだったのに……。きっとこんなこと、もう二度と起ることないだろうに……。
がっくりと内心項垂れて、表向きは微笑みながら、西嶋さんを見送る。
まぁ、現実なんて、こんなもんよね。なに期待しちゃってたのよ、なの花。
大体、西嶋さんに対しては、恋っていうか、アイドル的存在じゃない。こんなおいしい思い出来ただけで、超ラッキーじゃん。
片手を上品に振りながら、自分に言い聞かせ慰める。
すると、出口に手を掛けた西嶋さんが、その手を離して再度くるりとわたしに向き合った。
「あ。そうだ。よかったら、連絡先、聞いてもいい?」
「……えっ、は、はい」
そのあと西嶋さんはすぐ帰って行った。
でも、確かにわたしの手には、西嶋さんのアドレスの書かれた名刺が残っていた。