夏音の風

序章

古びたバス停のベンチに座ると、夏音（かのん）は毛糸の手袋を脱いだ。左膝に置かれた小さな手は、自分とお揃いの水色の手袋をはめている。


　「里穂（りほ）、今夜はどんなお月様？」

　「まぁるい、おつきちゃま」


間を置くことなく無邪気に答える里穂に向ける夏音の表情は、”　いつもの夜　”と変わりなかった。いや、夏音にとっては夜であろうと昼であろうと、この世界を普通の人間のようにその瞳に映すことは出来ない。それが、あの時の約束だからだ。


それでも遠くから見えるオレンジ色の光は満月の夜に負けじと輝きを増し、二人の側へと近づいてくる。幾度となく待ち続けた夜を思い返す夏音には、眩いその光すら霞んで見えていた。


　「きょうは、くるの？　かのんの……」

　「”　夏音の風　”」


　―――風がくる。



　その言葉に些か違和感を感じるが、夏音にとってその風は『吹く』ではなく、『来る』という表現が正しく、またそう教えられて育ってきた里穂にとっても夏音の風は来るもので、その理由は絶対に夏音にしか解らないものだった。