いろいろカレシ。
いろいろカレシ。~美容師の彼の場合~
刃物が擦れ合う独特の音が絶え間なく響く店内は照明のオレンジを少しだけ濃くした、癒しの空間。
天井を彩るのはカットガラスがキラキラ明かりを反射させる小ぶりのシャンデリア。
全身がしっかり映る大きな鏡は少しも曇りなく、店内を広く見せる効果まで発揮している。
空間を演出するBGMは聞き流すのにちょうどいい洋楽ポップ。
時折気まぐれのようにジャズが流れつつ、そこに重なる落ち着いた話し声やハサミの音が心地いい。
慣れ親しんだこの空間で、今日も僕は何人もの髪を整える。
昼間の店内はスッキリとスタイリッシュな雰囲気を醸しだし、日が落ちてくるとほんのり贅沢感が味わえるラグジュアリーさを醸し出す店内に、今夜は珍しく客は一人もいなくて。
店長も帰った後のその場所で僕は一人、大切な「彼女」のために特別席を用意していた。
一応トップスタイリストとして、他のスタイリスト達より長い拘束時間と少ない休みで勤務している、そのおかげで店長もいろいろ便宜を図ってくれることが多く、今回もその内の一つで。
営業時間を過ぎた店内は僕にとって最高の練習場所であり、大切なコミュニケーションの場所でもある。
誰との?って…そんなの決まってる。
不定休な仕事のおかげで休みが重なることも稀、しかもお互いに夜遅くまで仕事をしているせいでなかなか一緒にいる時間の取れない「彼女」との、貴重なコミュニケーションの場だ。
来客の少なそうな日は彼女にメールして、帰宅途中でここに寄ってもらうことにしている。
ストレスフルな職場で一生懸命奮闘している彼女に、少しでもリラックスして充電してほしいから。
「もうそろそろ、かな」
ふと視線を上げて時計を確認する。
今日もきっとほとんどボランティアな残業タイムを終えてくるだろうから、長めに頭皮マッサージをしてヘアケアをして、それからそっと肩もほぐしてあげよう。
コースを決めながら座席を用意して、彼女が好きそうな雑誌も完備。
シャンプーシートには手触りのやわらかなひざ掛けと、通称「背伸びボックス」も設置。
同じ年代の女性と比べて身長の低い彼女の必需品だ。
カットスペースには頭皮ケア用の機材も準備して、さあ後は彼女を迎えるだけ…となった頃、タイミングよくドアベルが鳴った。
リリン、という軽やかな鈴の音。
「こんばんはー…」
様子を窺うようにおずおずとドアを開けた彼女が見えた。
「いらっしゃい。さあ、こちらへどうぞ」
とっくに彼女専用のスペシャルタイムなのに、誰に気遣っているのか彼女はいつも躊躇うように入店してくる。
そんな姿は小動物に似ていて、図らずも僕は満面の笑みで彼女を迎えることになる。
シャンプースペースへ促しつつ彼女の上着を脱がせ、荷物と一緒にクローゼットにしまってから、どこかそわそわしている彼女をシートに座らせる。
仰向けのまま首を座席に預け、しなやかに伸びた髪をきれいに引き出してシャンプー台に垂らす。
照れくさそうに瞬きする彼女と、パチリ、視線が重なった。
「何で緊張してるの?」
「ん、ちょっと、恥ずかしい」
「恥ずかしい?」
「あんまり見ちゃダメ、だよ」
「どうして?」
「メイク崩れてるの」
あちゃー、って感じに軽く力を入れて目を閉じる彼女の瞼はきれいにグラデーションを描いている。
ファンデーションだってちゃんとしてると思うんだけど。
「大丈夫、疲れてるのにメイク直して来てくれたんでしょ?可愛いよ」
そう告げれば
「あ、う」
はにかみながら、でも嬉しそうに僕を見上げてくる。
ダメだよ、そんなの反則。
ほんのり色づいた愛らしい唇に触れたくなっちゃうから。
そして僕は、他に誰もいないのをいいことに、ちゅ、とそこに触れる。
「ちょっ」
途端に慌てる彼女がまた可愛くて。
うん、これだけでもう満足。
「ほーら、動いちゃダメ。シャンプーするから、大人しくしてて」
「…はーい」
少しだけ拗ねて彼女は肩をすくめた。
その仕草に、思わず口元が緩んでしまう。
しっかり光沢を放つ真っ直ぐな髪を指で梳いて、お湯で湿らせてから柑橘系の甘く爽やかな香りがするシャンプーで泡立てる。
指の腹に力を入れて、しっかり頭皮を洗うようにマッサージをしながら、汚れも疲れも流れていくように。
「痒いところはございますか?」
「ふふ、んー、大丈夫です」
「ホント?お湯は熱くない?」
「うん、ちょうどいいよ」
彼女は気恥ずかしいのか目を閉じていた。
長い睫毛がくるりとカーブしている。
ビューラーを使うことなく自然と弧を描く、女の子が理想とする睫毛。
シャンプー中にいつも思う事、それは彼女のパーツ一つ一つが堪らなく愛しいって事。
いやそれはもちろん彼女自身がまるごと好きっていう前提があるからこそなんだけど、なんというか、全体的に柔らかそうな曲線で作られている彼女は、僕にとってどこをどう見ても愛らしいって事。
ぱっちり二重の瞳はいつだって素直に感情を浮かべてくるくる表情を豊かにするし、笑うとえくぼのできるほっぺたはツンと指先でつつきたくなる。
優しい声で僕を呼んだりあったかい言葉を紡いでくれる桃色の唇も、リップを塗るだけで十分僕を惹きつける。
初めて見た時から「生まれたて」みたいにふんわりした両手も、彼女いわく「短くてぽってりした指」でコンプレックスだという10本の指も、僕に言わせればずっと握ってたいくらい可愛い指。
職業柄派手にできないというネイルも、穏やかな春色のグラデーションで控えめに彩られている。
丸い指先はいつもそっと僕に触れてくれる。
美人は3日で飽きるらしいけど、可愛い彼女に飽きることは一切ない。
たまに会えるくらいだからだろうとひねくれた事を言う人もいるけれど、全力で否定出来るよ。
出来ることなら毎日会いたいって、ずっと考えているんだから。
当然、同棲するくらいならちゃんと結婚したい。
…でも、それはまだ伝えられずにいるのだけれど。
「結婚してください」って言ったら、どんな顔するかな。
少し前から僕はそんな事を考えるようになり、数日後に控えている彼女の誕生日には絶対言うんだ、と密かに意気込んでいる。
彼女には内緒のサプライズ付きだ。
目を閉じて気持ちよさそうにしている彼女を眺めながら、とりとめもなくそんな事を考えながら、シャンプーを流した後にトリートメントをよく馴染ませる。
すると、すん、と彼女は鼻を動かした。
「これって何の香り?さっきより甘い感じがする」
「青りんご、かな」
「りんご?ふーん、いい香り…」
うっとりしたように呟く彼女は、語尾をふにゃりとさせた。
良かった、リラックスできてるみたいだ。
「どっちがいい?柑橘系とグリーンアップルと」
「うーん…どっちも好き」
「じゃあ今度これと同じシリーズ、家でも使ってみる?」
「うん」
「使う時はちゃんと僕に洗わせてね」
「いいの?」
「いいよ。こうやって髪を洗うの、特権でしょ」
「うわー、私幸せすぎちゃう」
「じゃあ毎日やってあげる」
「私もやってあげる」
「ホント、嬉しいな。っと、はい、背もたれ起こすよ。いい?」
「うん」
彼女の額に手を添えて、倒したシートごと彼女の体を起こす。
それからタオルで水気を吸い取って、髪をまとめてからカットスペースへ移動する。
座った彼女の背後に立って、鏡越しに彼女と視線を合わせれば、彼女はふわりと笑顔を浮かべた。
「今日はどうする?少し切る?」
伸びて流すようにしていた前髪を櫛でおろしながら、鏡越しに問いかける。
背中に垂らしている髪もボリュームが出てきている。
「どうしよう、ちょっと前髪邪魔になってきたんだよね」
「じゃあ少し切っておこうか。後ろも梳いておく?」
「うん。この間メデューサみたいになっちゃった」
「メデューサ?」
「強風に正面から挑んでみた」
あは、なんて力の抜けた声を出して彼女は笑う。
相変わらず彼女の行動は予想の斜め上を行っているらしい。
たまにびっくり箱のような面白さを滲ませる。
「相変わらず闘ってるね」
スキバサミを動かしながら言えば、彼女はふふ、と吐息を漏らした。
そして僕たちの間にはハサミのシャキシャキという音だけが響き始める。
彼女の髪に集中する僕と、そんな僕を鏡越しに興味津々な瞳で追う彼女と。
静かなのに穏やかな空気の漂うこの時間もまた心地いい。
一通りすっきりするまで髪を梳いて、前髪を切りそろえ、彼女にOKをもらうと、もう一度シャンプー台で髪をすすいで、今度は頭皮マッサージ用のシートに座ってもらう。
「今日はアヒルでどう?」
「わ、可愛い」
彼女の膝の上には白くてふわふわしたアヒルのぬいぐるみ。
華奢な両腕でそれを抱えて、再び仰向けになった彼女の瞳だけを今度はティッシュで覆って、その上からひんやりしたアイマスクを乗せた。
「気持ちいい」
ほうっと息をついて、彼女の体から力が抜けていく。
「これからもっと気持ちいいよ。準備はいい?」
「いいよー」
完全にリラックスモードの彼女に、マッサージを開始。
指先で触れた頭皮が若干強ばっている。
大分疲れが溜まってるのかもしれない。
閉じた瞼に力が入っていて、眉間にしわが寄っている。
「痛い?」
「ううん、大丈夫」
「そう。大分疲れてるでしょ。眠れてるの?」
「うー…うん」
妙な間。
「こら。正直に答えなさい?」
笑いながら諌めれば、彼女は固く唇を結んでから呟くように
「眠れてない、です」
と言った。
やっぱり。
他人から受けたストレスは彼女の中に、降り積もる雪みたいに重く溜まっていく。
それらは必ず消化されていくけれど、時間はかかるしその間彼女はぐっと耐えなければならない。
何とも不器用な彼女らしいやり方なのだけれど、当然犠牲はつきものになる。
ストレス性の不眠とめまい。
それでも仕事は休まないし気力と意地と責任感で踏んばってしまう彼女だから。
例えそれが彼女のプライドであっても、僕の心配はつきない。
ファンデーションで上手く隠したクマだって、日に日に濃くなっているはずだ。
彼女の唇からゆっくりあくびが溢れる。
「眠っていいよ。終わったら起こすから」
「ん…」
「おやすみ」
耳元でそっと囁けば、次第に彼女の呼吸は深くなって規則的に胸が上下し始める。
どうやら眠れたらしい。
「少しの間ゆっくり休んで」
いい夢が見られるように、額に一つ、キスを落とす。
すると不意に眉間から力が抜けて安らかな表情が浮かんだ。
いつも頑張りすぎてしまう君。
だから僕の側にいるときくらいは安心していいよ。
心ごと僕が君を抱きしめるから。
君を傷つけるものから守るから。
ゆっくり休んで。
そしてつかの間の夢から目覚めたら、今度は永遠に醒めない優しい夢を見せてあげる。
今夜は二人で幸せな夢を見ようね…。
続く?
天井を彩るのはカットガラスがキラキラ明かりを反射させる小ぶりのシャンデリア。
全身がしっかり映る大きな鏡は少しも曇りなく、店内を広く見せる効果まで発揮している。
空間を演出するBGMは聞き流すのにちょうどいい洋楽ポップ。
時折気まぐれのようにジャズが流れつつ、そこに重なる落ち着いた話し声やハサミの音が心地いい。
慣れ親しんだこの空間で、今日も僕は何人もの髪を整える。
昼間の店内はスッキリとスタイリッシュな雰囲気を醸しだし、日が落ちてくるとほんのり贅沢感が味わえるラグジュアリーさを醸し出す店内に、今夜は珍しく客は一人もいなくて。
店長も帰った後のその場所で僕は一人、大切な「彼女」のために特別席を用意していた。
一応トップスタイリストとして、他のスタイリスト達より長い拘束時間と少ない休みで勤務している、そのおかげで店長もいろいろ便宜を図ってくれることが多く、今回もその内の一つで。
営業時間を過ぎた店内は僕にとって最高の練習場所であり、大切なコミュニケーションの場所でもある。
誰との?って…そんなの決まってる。
不定休な仕事のおかげで休みが重なることも稀、しかもお互いに夜遅くまで仕事をしているせいでなかなか一緒にいる時間の取れない「彼女」との、貴重なコミュニケーションの場だ。
来客の少なそうな日は彼女にメールして、帰宅途中でここに寄ってもらうことにしている。
ストレスフルな職場で一生懸命奮闘している彼女に、少しでもリラックスして充電してほしいから。
「もうそろそろ、かな」
ふと視線を上げて時計を確認する。
今日もきっとほとんどボランティアな残業タイムを終えてくるだろうから、長めに頭皮マッサージをしてヘアケアをして、それからそっと肩もほぐしてあげよう。
コースを決めながら座席を用意して、彼女が好きそうな雑誌も完備。
シャンプーシートには手触りのやわらかなひざ掛けと、通称「背伸びボックス」も設置。
同じ年代の女性と比べて身長の低い彼女の必需品だ。
カットスペースには頭皮ケア用の機材も準備して、さあ後は彼女を迎えるだけ…となった頃、タイミングよくドアベルが鳴った。
リリン、という軽やかな鈴の音。
「こんばんはー…」
様子を窺うようにおずおずとドアを開けた彼女が見えた。
「いらっしゃい。さあ、こちらへどうぞ」
とっくに彼女専用のスペシャルタイムなのに、誰に気遣っているのか彼女はいつも躊躇うように入店してくる。
そんな姿は小動物に似ていて、図らずも僕は満面の笑みで彼女を迎えることになる。
シャンプースペースへ促しつつ彼女の上着を脱がせ、荷物と一緒にクローゼットにしまってから、どこかそわそわしている彼女をシートに座らせる。
仰向けのまま首を座席に預け、しなやかに伸びた髪をきれいに引き出してシャンプー台に垂らす。
照れくさそうに瞬きする彼女と、パチリ、視線が重なった。
「何で緊張してるの?」
「ん、ちょっと、恥ずかしい」
「恥ずかしい?」
「あんまり見ちゃダメ、だよ」
「どうして?」
「メイク崩れてるの」
あちゃー、って感じに軽く力を入れて目を閉じる彼女の瞼はきれいにグラデーションを描いている。
ファンデーションだってちゃんとしてると思うんだけど。
「大丈夫、疲れてるのにメイク直して来てくれたんでしょ?可愛いよ」
そう告げれば
「あ、う」
はにかみながら、でも嬉しそうに僕を見上げてくる。
ダメだよ、そんなの反則。
ほんのり色づいた愛らしい唇に触れたくなっちゃうから。
そして僕は、他に誰もいないのをいいことに、ちゅ、とそこに触れる。
「ちょっ」
途端に慌てる彼女がまた可愛くて。
うん、これだけでもう満足。
「ほーら、動いちゃダメ。シャンプーするから、大人しくしてて」
「…はーい」
少しだけ拗ねて彼女は肩をすくめた。
その仕草に、思わず口元が緩んでしまう。
しっかり光沢を放つ真っ直ぐな髪を指で梳いて、お湯で湿らせてから柑橘系の甘く爽やかな香りがするシャンプーで泡立てる。
指の腹に力を入れて、しっかり頭皮を洗うようにマッサージをしながら、汚れも疲れも流れていくように。
「痒いところはございますか?」
「ふふ、んー、大丈夫です」
「ホント?お湯は熱くない?」
「うん、ちょうどいいよ」
彼女は気恥ずかしいのか目を閉じていた。
長い睫毛がくるりとカーブしている。
ビューラーを使うことなく自然と弧を描く、女の子が理想とする睫毛。
シャンプー中にいつも思う事、それは彼女のパーツ一つ一つが堪らなく愛しいって事。
いやそれはもちろん彼女自身がまるごと好きっていう前提があるからこそなんだけど、なんというか、全体的に柔らかそうな曲線で作られている彼女は、僕にとってどこをどう見ても愛らしいって事。
ぱっちり二重の瞳はいつだって素直に感情を浮かべてくるくる表情を豊かにするし、笑うとえくぼのできるほっぺたはツンと指先でつつきたくなる。
優しい声で僕を呼んだりあったかい言葉を紡いでくれる桃色の唇も、リップを塗るだけで十分僕を惹きつける。
初めて見た時から「生まれたて」みたいにふんわりした両手も、彼女いわく「短くてぽってりした指」でコンプレックスだという10本の指も、僕に言わせればずっと握ってたいくらい可愛い指。
職業柄派手にできないというネイルも、穏やかな春色のグラデーションで控えめに彩られている。
丸い指先はいつもそっと僕に触れてくれる。
美人は3日で飽きるらしいけど、可愛い彼女に飽きることは一切ない。
たまに会えるくらいだからだろうとひねくれた事を言う人もいるけれど、全力で否定出来るよ。
出来ることなら毎日会いたいって、ずっと考えているんだから。
当然、同棲するくらいならちゃんと結婚したい。
…でも、それはまだ伝えられずにいるのだけれど。
「結婚してください」って言ったら、どんな顔するかな。
少し前から僕はそんな事を考えるようになり、数日後に控えている彼女の誕生日には絶対言うんだ、と密かに意気込んでいる。
彼女には内緒のサプライズ付きだ。
目を閉じて気持ちよさそうにしている彼女を眺めながら、とりとめもなくそんな事を考えながら、シャンプーを流した後にトリートメントをよく馴染ませる。
すると、すん、と彼女は鼻を動かした。
「これって何の香り?さっきより甘い感じがする」
「青りんご、かな」
「りんご?ふーん、いい香り…」
うっとりしたように呟く彼女は、語尾をふにゃりとさせた。
良かった、リラックスできてるみたいだ。
「どっちがいい?柑橘系とグリーンアップルと」
「うーん…どっちも好き」
「じゃあ今度これと同じシリーズ、家でも使ってみる?」
「うん」
「使う時はちゃんと僕に洗わせてね」
「いいの?」
「いいよ。こうやって髪を洗うの、特権でしょ」
「うわー、私幸せすぎちゃう」
「じゃあ毎日やってあげる」
「私もやってあげる」
「ホント、嬉しいな。っと、はい、背もたれ起こすよ。いい?」
「うん」
彼女の額に手を添えて、倒したシートごと彼女の体を起こす。
それからタオルで水気を吸い取って、髪をまとめてからカットスペースへ移動する。
座った彼女の背後に立って、鏡越しに彼女と視線を合わせれば、彼女はふわりと笑顔を浮かべた。
「今日はどうする?少し切る?」
伸びて流すようにしていた前髪を櫛でおろしながら、鏡越しに問いかける。
背中に垂らしている髪もボリュームが出てきている。
「どうしよう、ちょっと前髪邪魔になってきたんだよね」
「じゃあ少し切っておこうか。後ろも梳いておく?」
「うん。この間メデューサみたいになっちゃった」
「メデューサ?」
「強風に正面から挑んでみた」
あは、なんて力の抜けた声を出して彼女は笑う。
相変わらず彼女の行動は予想の斜め上を行っているらしい。
たまにびっくり箱のような面白さを滲ませる。
「相変わらず闘ってるね」
スキバサミを動かしながら言えば、彼女はふふ、と吐息を漏らした。
そして僕たちの間にはハサミのシャキシャキという音だけが響き始める。
彼女の髪に集中する僕と、そんな僕を鏡越しに興味津々な瞳で追う彼女と。
静かなのに穏やかな空気の漂うこの時間もまた心地いい。
一通りすっきりするまで髪を梳いて、前髪を切りそろえ、彼女にOKをもらうと、もう一度シャンプー台で髪をすすいで、今度は頭皮マッサージ用のシートに座ってもらう。
「今日はアヒルでどう?」
「わ、可愛い」
彼女の膝の上には白くてふわふわしたアヒルのぬいぐるみ。
華奢な両腕でそれを抱えて、再び仰向けになった彼女の瞳だけを今度はティッシュで覆って、その上からひんやりしたアイマスクを乗せた。
「気持ちいい」
ほうっと息をついて、彼女の体から力が抜けていく。
「これからもっと気持ちいいよ。準備はいい?」
「いいよー」
完全にリラックスモードの彼女に、マッサージを開始。
指先で触れた頭皮が若干強ばっている。
大分疲れが溜まってるのかもしれない。
閉じた瞼に力が入っていて、眉間にしわが寄っている。
「痛い?」
「ううん、大丈夫」
「そう。大分疲れてるでしょ。眠れてるの?」
「うー…うん」
妙な間。
「こら。正直に答えなさい?」
笑いながら諌めれば、彼女は固く唇を結んでから呟くように
「眠れてない、です」
と言った。
やっぱり。
他人から受けたストレスは彼女の中に、降り積もる雪みたいに重く溜まっていく。
それらは必ず消化されていくけれど、時間はかかるしその間彼女はぐっと耐えなければならない。
何とも不器用な彼女らしいやり方なのだけれど、当然犠牲はつきものになる。
ストレス性の不眠とめまい。
それでも仕事は休まないし気力と意地と責任感で踏んばってしまう彼女だから。
例えそれが彼女のプライドであっても、僕の心配はつきない。
ファンデーションで上手く隠したクマだって、日に日に濃くなっているはずだ。
彼女の唇からゆっくりあくびが溢れる。
「眠っていいよ。終わったら起こすから」
「ん…」
「おやすみ」
耳元でそっと囁けば、次第に彼女の呼吸は深くなって規則的に胸が上下し始める。
どうやら眠れたらしい。
「少しの間ゆっくり休んで」
いい夢が見られるように、額に一つ、キスを落とす。
すると不意に眉間から力が抜けて安らかな表情が浮かんだ。
いつも頑張りすぎてしまう君。
だから僕の側にいるときくらいは安心していいよ。
心ごと僕が君を抱きしめるから。
君を傷つけるものから守るから。
ゆっくり休んで。
そしてつかの間の夢から目覚めたら、今度は永遠に醒めない優しい夢を見せてあげる。
今夜は二人で幸せな夢を見ようね…。
続く?