センセイの白衣
その日は、ちょっとした実験をして。

実験が終わった人から、プリントを書いていた。

そのプリントを書き終わった人から帰れるんだ。


みんな、適当に書いてさっさと帰っていく。

だけど、私は丁寧に書いていたら、結局一人になってしまったんだ。



先生は、窓際に立って日の沈んでいく空を見ていた。



昨日の話を思い出して、私は切なくなる。

先生は、一体何を考えているんだろう。

その空を見上げる切ない視線の向こうに、何を見ているんだろう―――



ずっと先生をみつめていたら、急に先生と目が合った。


早く書け、俺も帰れないだろ。


そんなこと、言われると思ってたのに。



「急いで書かなくていいよ。時間が許すなら、いつまでもいていい。」


「え、」



いつもより、ずっと優しい口調で、先生が言った。

何だか調子が狂う。


いつまでもいていい、なんて。

そんなこと、どうして言うの、先生。

他の子にも、言うの――――?



「お前、数学苦手だろ?」


「ハイ。」



先生は、窓から私に視線を移して、そのまま近づいてきた。

私がプリントを書いている席の、ひとつ前に、先生が座る。

そして、椅子ごと斜めにして、私と向き合った。


放課後の、生物講義室に二人きり。

外は、陽が沈みかけていて。

薄暗い静かな教室。


私の心臓は、ドキドキとうるさい―――



「俺、大学入試のときな、開始直後に解答用紙を一枚落としたんだよ。」


「ええー?」


「手を挙げて、試験官を呼べばよかった。それだけだったんだけど……、緊張しすぎて呼べなかった。」


「え、それで、どうしたんですか?」


「どうって、仕方ないから諦めた。その問題は捨てて、他の問題を解いた。」


「受かったんですか?」


「そうなんだよ。それなのに、受かったんだ。」


「え、すごい!」



幸せだった。

きっと、誰も知らない先生の昔話を、私だけの為に話してくれるなんて。

こんなふうに、向き合って。



「まあ、その問題、捨て問だったんだ。どっちにしろ、解けなかったと思う。」



そう言って、笑う先生。

ああ、好き。

好き、大好き。


緊張しすぎて手も挙げられないなんて。

そんな、ピュアな若き日の先生。

一体、どんなに素敵だっただろう。

どうして私は、先生と同じ教室にいられなかったんだろう―――



「俺、生物の教師だから、数学についてはアドバイスのしようがない。」



そこで気付いた。

先生は、必死に私を、慰めようとしてくれたってこと。

数学が苦手でも、受かるよって。

勇気づけようとしてくれていたんだ。



「教師がこんなこと言うのも変だけど、お前、もう少し手を抜くところは抜いてもいいと思うぞ。」


「え?」


「いや……。」



先生は、何のことを言っているのだろう。

もしかして、私が生物関連の提出物を、完璧すぎるほど一生懸命やっているから?

だけど、それは生物だけなんだよ、先生。

先生の教科だけなんだよ―――



「もう少し、ずるくなれ、ってこと。」



きゅん、とした胸を思わず押さえそうになる。

今日の先生、何だかおかしい。

どうしてこんなに、優しいんだろう。


自分が喋っていると、私がちっともプリントを埋められないことに気付いた先生は、静かに席を立った。

私は、教室が真っ暗になってしまう前に、と急いでプリントを埋めた。




「先生、」



プリントを渡すと、まだいつもの調子に戻っていない先生が、ふわりと微笑む。

どうしたらいいか分からない私は、さようなら、と言ってぺこりとおじぎをした。

そして、もう随分暗い教室に先生を残して、一人帰ったんだ。
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