桜華抄
「華さん。起きてちょうだい。もうすぐ引継ぎなの。起きて! 朝よ!」

肩を揺すられている…。麗…?
がばっ…と華は体を起こした。華の肩に手をかけているのは、看護師の篠崎。心配そうな目でのぞきこんでいる。

「あ、すみません。つい、眠ってしまって」

「何度も起こしたのよ。まったく起きないからどうしようかと思ったわ」

「ごめんなさい…」

「もうすぐ回診や処置があるから、外に出てね」

「あ、はい。…あ、紫音さんは?」

「とっくに帰ったわよ。また朝に来るから廊下で待っていてって」
「ハイ」

華はずっと握っていた悠河の手を離し立ち上がった。とたんに目の前が真っ暗になりしゃがみこむ。
「華さん! 大丈夫?」

「なんか…立ちくらみがして…」
「座って。頭を低くして」

「…ハイ」

徐々に視界に明るさが戻ってくる。華は深呼吸をした。篠崎の温かく大きな手が華の背中をさする。
「もう、大丈夫です」

「疲れているのね。廊下のソファで横になるといいわ。連れていってあげる」

華は篠崎に付き添われ、廊下の待合室のソファに体を横たえた。

「楽になってきたら、そこの自販機で何か温かいものでも飲みなさいね」

「ハイ。ありがとうございます」
篠崎はパタパタと集中治療室の中へ戻って行った。


――何だろう。こんなにひどい立ちくらみがするなんて。


華はつい先刻までいた社長室での出来事を思い出す。あれは本当のことなのか、それとも夢なのか。どちらにしても、紫音が来たら確かめよう。
ソファに横になったまま、華はまたうとうとと眠りに入った。

再び肩を揺すられているのに気づき、華はゆっくりと目を開けた。
「華ちゃん、大丈夫?」

心配そうな二つの顔がのぞきこんでいる。

「あ、紫音さん。おはようございます」

「急に起き上がらないで。また立ちくらみを起こすわよ」

篠崎が華を制し、手に持っていたホットミルクティーの缶を手渡す。温かさがじんわり手から体へと伝わっていく。

「華ちゃん、だいぶ疲れているようね」

「さっきも立ち上がったとたんに倒れこんじゃって」

篠崎が答える。

「近くにホテルをとったから、そこで休ませるわ」

「そのほうがいいわね。もう私フリーだから、ホテルまで付き添ってあげましょうか」

「ありがとう。助かるわ」

篠崎と紫音の会話をぼんやり聞いていた華はあわてて身を起こす。
「あ…あのホテルって…?」

「ごめんなさいね。華ちゃん。日中は付き添いできないの。すぐ近くのホテルをとったから、午後の面会時間になるまでは休んでいてちょうだい」

「え…ホテルなんていいですよ。マンションに帰ります」

「ここ、結構遠いし不便よ。毎回私が送り迎えできればいいんだけど、ちょっと無理なの。しばらくはホテルに泊まってくれないかしら」

「そうですか…。そういうことなら、わかりました」

「ごめんなさいね。付き添いできなくて。本当は夜もダメなんだけど、あなたと美都様は特別ってことで」

篠崎が太い眉毛を下げて申し訳なさそうな顔をする。

「あ…そうだったんですか…」

紫音は華を篠崎に託すことに決め、カバンを抱えて立ち上がった。
「夕方には一度こちらへ寄るわ。ホテルはここ。あなたの名前でとってあるから。じゃあ、私行くわね」

華に地図を手渡し、行こうとする紫音の背に華はあわてて声をかける。

「あの! 紫音さん!! ちょっと待ってください」

紫音は怪訝そうに振り向く。

「何?」

「あの、信じてもらえないかもしれないけど、私、さっきまで夢の中で悠河と一緒にいたんです」

「……そう」

華の夢の中に悠河澄が出てきても不思議ではない。あれだけ片思いを続けていてこんな事態になったら、夢に見るのも当然のこと。

「あの、本当なんです。本物の悠河がいたんです。それで、紫音さんへ伝言を伝えてほしいって言ってました。聞いてもらえますか?」

「ええ…。時間が無いから手短にお願いできるかしら」

華はソファから立ち上がり、すっと背を伸ばす。目に陰が降りる。一瞬華の顔からすべての表情が消えた。

次の瞬間、そこには書類を手にする悠河の姿が現れた。


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