桜華抄
紫音は途中から、いつも社長室で悠河と対峙する時のようにシステム手帳を繰り、書類を取り出し、付箋をつけメモをとった。もちろん、うっかり紫音の口から出た質問には一切答えの返ってこない一方通行のやりとりではあったが。
その横で、篠崎は信じられないものを見るように、丸い目をさらに丸く見開いて二人のやり取りを見つめていた。
三十分ほど。華は悠河を演じ切り、深く息を吐いた。
「…華ちゃん」
「ハイ…」
華は息切れしつつ答える。
「悠河だわ。…確かに」
「やっぱり、そうですか」
「こんなこと、あなたが一人でできるわけがないし、悠河以外にこんな的確な指示を出せる人はいない」
華はどさりとソファに横になった。
「…悠河、社長室にいたんです。そこから出られないって言ってました」
華は早い呼吸を繰り返す。篠崎がミルクティの缶を開け、華に手渡す。
こくりと一口飲む。
「悠河が、これを演じて紫音さんに見てもらえって。これが本当だったら、本当に悠河はあの夢の中にいるんだって…」
「どうやら、本当のことのようね」
「信じられないわ…」
篠崎がつぶやく。
「だって、脳はほとんど機能していないのよ。夢を見ることすらできないと思うけど」
「時間が止まっている、って。いつまで経っても5時35分のままだって」
「事故の起きた時刻ね」
「夢なのか、何か別の空間なのか…」
篠崎が納得のいかない顔で考え込む。
「私が行ったら、周囲が少し明るくなったって言ってました」
「華さんの存在が何らかの影響を与えているってことなのね」
「そう…」
紫音がため息で応じる。
「俺が指示を出せるのはここまでだって。あとは今後の経営陣に従ってくれって言ってました」
「そう…ね。確かにそうすべきだと思うわ。ねえ、華ちゃん。月下美人については何か言ってた?」
「…すぐには動けないけれど、何とかして出来る限りの手は打つって」
紫音はもう一つため息をつく。
「何とかって言っても…悠河がこれでは…」
「それでね、紫音さん。悠河が月下美人を紫音さんに託すことになるかもしれないって」
「私に!?」
「はい」
「託すと言われても…難しいことだわ」
「私も何がなんだかわからなかったんですけど。でもきっとまた悠河に会えれば…」
また会えるという確証はないだろうに。紫音はこめかみに手をあてた。
もしも本気で悠河が自分に月下美人を任せるつもりならば、それこそ今後の自分の進退に直接関係してくる。悠河の事故は、会社だけではなく自分の人生まで大きく変えていくことになる。それが今はっきりと目の前に提示された。
紫音は顔を上げ、まっすぐ前を見据えた。
――やってみましょう。悠河。できるかぎりのことを。
篠崎に送り届けられ、華はホテルのベッドに倒れこむ。もう眠くてしようがなく、食べることも着替えることもできずに、そのまま眠りに落ちた。
そんな華の様子を見ていた篠崎は近くの店で華がすぐに食べられるものを見繕い、その白いビニール袋をそっとテーブルの上に載せて帰っていった。
まだ夕方というには早い時間。
華は泥のような眠りから覚めた。
あわてて時計を見る。もう面会時間は始まっている。でも着替えぐらいしなければ。悠河に会うのは夢の中とわかっていても、あまりみっともない姿では行きたくない。
急いでシャワーを浴び、麗の詰めてくれたボストンバッグを開ける。着替え以外にも洗面用具や化粧品などすべてきちんとまとめて入れてあった。華は心の中で麗に感謝する。きっと自分がやったらこうはいかない。
短時間とはいえぐっすり眠り、シャワーを浴びたことで華の気持ちもすっきりとした。
テーブルの上の白い袋に気づく。メモ用紙に見慣れない字で食事を取るよう書いてある。サインは篠崎。
――私、色んな人に助けられている…。
自分が悠河の力になろうと空回りしているところを、紫音や麗、そして篠崎が支えてくれている。おにぎりを頬ばりながら、華は温かな気持ちに包まれた。
外に出る。灰色の雲が太陽を隠し、強めの風が吹き過ぎる。春とはいえまだ肌寒い。
華はコートを掻き合わせて首をすくめ、プラタナスの街路樹の続く道を一人歩く。もう若草色の新芽が出始めていた。
――今日はこんなに寒いけど、やっぱり春が来ているんだ。
すぐに病院の建物が見え始める。プラタナスの続く中、病院前の一角だけ桜が植えられていた。まだつぼみの多い枝を風で揺らす桜の木。この天気では昨日からそう開花は進んでいないのだろう。濃い
ピンクのつぼみの中で半分ふうわりと開いた花を、華は背伸びをしてそっと触った。
――まだ、咲き急がないでね。
まるで願いを掛けるようにそう思った。
夜遅い時刻になっても集中治療室では蛍光灯が煌々と白い光を投げかけていた。時折ぱたぱたと看護師の足音や医師らの低い話し声が聞こえる。途切れることなくピッピッピッ…という音や何かの警告音が遠くで鳴っている。
消灯時間になると、ベッドのそばだけは幾分明かりが減らされ、ベッド脇のカーテンが引かれた。大きな窓にはブラインドが下ろされ、細い隙間から真っ暗な闇が透けて見える。
華は夕方病院に来て以来、ずっと悠河の手を握っていた。紫音が立ち寄った以外には誰も見舞いに来ない。静かな時間が流れてゆく。
何をするでもない。ただ自分ができるのは、こうして手を握っているだけ。華はもどかしく思う。
――会えるのだろうか、今夜も。
不安が華の胸をよぎる。
昨夜はたまたま偶然うまく悠河とつながっただけなのかもしれない。今夜会えるという保証はどこにもない。だから、できるだけ昨夜と同じ位置で同じ体勢で同じように手を握る。
先ほど篠崎がやってきてそっと耳打ちしていった。
「華さん。昨日のようにここで眠ってもいいからね。でも朝は起こすわよ」
そして柔和な目をいたずらっぽく細めた。
華は悠河の手に頬を寄せる。日中仮眠したとはいえ、やはり疲れは残っている。徐々に眠気がさしてきた。
――はい…お言葉に甘えて、ここで眠ります。
どうか、今夜も悠河に会えますように。うまくつながりますように。どうか、お願いします…
その横で、篠崎は信じられないものを見るように、丸い目をさらに丸く見開いて二人のやり取りを見つめていた。
三十分ほど。華は悠河を演じ切り、深く息を吐いた。
「…華ちゃん」
「ハイ…」
華は息切れしつつ答える。
「悠河だわ。…確かに」
「やっぱり、そうですか」
「こんなこと、あなたが一人でできるわけがないし、悠河以外にこんな的確な指示を出せる人はいない」
華はどさりとソファに横になった。
「…悠河、社長室にいたんです。そこから出られないって言ってました」
華は早い呼吸を繰り返す。篠崎がミルクティの缶を開け、華に手渡す。
こくりと一口飲む。
「悠河が、これを演じて紫音さんに見てもらえって。これが本当だったら、本当に悠河はあの夢の中にいるんだって…」
「どうやら、本当のことのようね」
「信じられないわ…」
篠崎がつぶやく。
「だって、脳はほとんど機能していないのよ。夢を見ることすらできないと思うけど」
「時間が止まっている、って。いつまで経っても5時35分のままだって」
「事故の起きた時刻ね」
「夢なのか、何か別の空間なのか…」
篠崎が納得のいかない顔で考え込む。
「私が行ったら、周囲が少し明るくなったって言ってました」
「華さんの存在が何らかの影響を与えているってことなのね」
「そう…」
紫音がため息で応じる。
「俺が指示を出せるのはここまでだって。あとは今後の経営陣に従ってくれって言ってました」
「そう…ね。確かにそうすべきだと思うわ。ねえ、華ちゃん。月下美人については何か言ってた?」
「…すぐには動けないけれど、何とかして出来る限りの手は打つって」
紫音はもう一つため息をつく。
「何とかって言っても…悠河がこれでは…」
「それでね、紫音さん。悠河が月下美人を紫音さんに託すことになるかもしれないって」
「私に!?」
「はい」
「託すと言われても…難しいことだわ」
「私も何がなんだかわからなかったんですけど。でもきっとまた悠河に会えれば…」
また会えるという確証はないだろうに。紫音はこめかみに手をあてた。
もしも本気で悠河が自分に月下美人を任せるつもりならば、それこそ今後の自分の進退に直接関係してくる。悠河の事故は、会社だけではなく自分の人生まで大きく変えていくことになる。それが今はっきりと目の前に提示された。
紫音は顔を上げ、まっすぐ前を見据えた。
――やってみましょう。悠河。できるかぎりのことを。
篠崎に送り届けられ、華はホテルのベッドに倒れこむ。もう眠くてしようがなく、食べることも着替えることもできずに、そのまま眠りに落ちた。
そんな華の様子を見ていた篠崎は近くの店で華がすぐに食べられるものを見繕い、その白いビニール袋をそっとテーブルの上に載せて帰っていった。
まだ夕方というには早い時間。
華は泥のような眠りから覚めた。
あわてて時計を見る。もう面会時間は始まっている。でも着替えぐらいしなければ。悠河に会うのは夢の中とわかっていても、あまりみっともない姿では行きたくない。
急いでシャワーを浴び、麗の詰めてくれたボストンバッグを開ける。着替え以外にも洗面用具や化粧品などすべてきちんとまとめて入れてあった。華は心の中で麗に感謝する。きっと自分がやったらこうはいかない。
短時間とはいえぐっすり眠り、シャワーを浴びたことで華の気持ちもすっきりとした。
テーブルの上の白い袋に気づく。メモ用紙に見慣れない字で食事を取るよう書いてある。サインは篠崎。
――私、色んな人に助けられている…。
自分が悠河の力になろうと空回りしているところを、紫音や麗、そして篠崎が支えてくれている。おにぎりを頬ばりながら、華は温かな気持ちに包まれた。
外に出る。灰色の雲が太陽を隠し、強めの風が吹き過ぎる。春とはいえまだ肌寒い。
華はコートを掻き合わせて首をすくめ、プラタナスの街路樹の続く道を一人歩く。もう若草色の新芽が出始めていた。
――今日はこんなに寒いけど、やっぱり春が来ているんだ。
すぐに病院の建物が見え始める。プラタナスの続く中、病院前の一角だけ桜が植えられていた。まだつぼみの多い枝を風で揺らす桜の木。この天気では昨日からそう開花は進んでいないのだろう。濃い
ピンクのつぼみの中で半分ふうわりと開いた花を、華は背伸びをしてそっと触った。
――まだ、咲き急がないでね。
まるで願いを掛けるようにそう思った。
夜遅い時刻になっても集中治療室では蛍光灯が煌々と白い光を投げかけていた。時折ぱたぱたと看護師の足音や医師らの低い話し声が聞こえる。途切れることなくピッピッピッ…という音や何かの警告音が遠くで鳴っている。
消灯時間になると、ベッドのそばだけは幾分明かりが減らされ、ベッド脇のカーテンが引かれた。大きな窓にはブラインドが下ろされ、細い隙間から真っ暗な闇が透けて見える。
華は夕方病院に来て以来、ずっと悠河の手を握っていた。紫音が立ち寄った以外には誰も見舞いに来ない。静かな時間が流れてゆく。
何をするでもない。ただ自分ができるのは、こうして手を握っているだけ。華はもどかしく思う。
――会えるのだろうか、今夜も。
不安が華の胸をよぎる。
昨夜はたまたま偶然うまく悠河とつながっただけなのかもしれない。今夜会えるという保証はどこにもない。だから、できるだけ昨夜と同じ位置で同じ体勢で同じように手を握る。
先ほど篠崎がやってきてそっと耳打ちしていった。
「華さん。昨日のようにここで眠ってもいいからね。でも朝は起こすわよ」
そして柔和な目をいたずらっぽく細めた。
華は悠河の手に頬を寄せる。日中仮眠したとはいえ、やはり疲れは残っている。徐々に眠気がさしてきた。
――はい…お言葉に甘えて、ここで眠ります。
どうか、今夜も悠河に会えますように。うまくつながりますように。どうか、お願いします…