桜華抄

戦いの序曲

華は夕焼けの差し込む社長室のドアの前に立つ。


――よかった。また来れた。


華は安堵のため息を一つつくと軽くノックした。ドアを開けると悠河の低く柔らかな声が迎える。

「やあ、おチビさん」

「もう。私、おチビさんじゃないってば…!」

いつものやりとりをこんな時にもするなんて。まるで昔に戻った気分を楽しむゲームのようだと華は思う。悠河自身は一体いつ現実世界に戻ることができるのか、今はまったくわからないけれど。

悠河は今日も窓辺に立っていた。相変わらずオレンジ色の空が広がる。華も窓辺に寄り、眼下に広がる夕映えの街を眺めた。

「綺麗ね」

「ああ…。君が来ると夕焼けが少し明るくなる」

「時間が戻るのかな?」

「いや。ここには時間なんて存在しないようだが」

自分がいない間、悠河はどうして過ごしていたんだろう…。聞いてみたいけれど、なんとなく怖い。華はこくりとつばを飲む。

「悠河は、私がいない時は…ずっとここにいるの?」

「ああ。どこにも行けないからな」

「ずっと、こうして?」

「そうだ。ずっと君のことを考えている」

涼しい顔で悠河は言った。華の頬から耳までが赤く染まる。

「もう。また、そうやってからかうんだから」

「本当だ。君のことだけを考えて、君が来るのをずっと待っていた」

真っ赤な華の顔がさらに赤くなる。ああ、恥ずかしい。きっと私、ゆでだこみたいだ…。
とうとう悠河は声を上げて笑い出した。

「悠河のばかぁ!! いじめっこ!!」

悠河は真っ赤になって怒る華をたまらず抱きしめる。華は最初は頬を膨らませていたが、そっと悠河の背に腕を回した。
まだ思いが通じたばかりでお互いどうしていいかわからない。昔からのやりとりが徐々に二人の距離を縮めてくれた。華は悠河に包まれ、素直に幸せを感じる。

「…華。今日は試してみたいことがあるんだが」

ふいに悠河の声のトーンが下がる。華は無意識に緊張した。

「なに?」

「誰かの夢に入れないか、やってみたい」

突拍子もないことを、そんな非現実的なことを悠河が言い出すなんて。華は驚いて悠河を見上げる。
「そんなこと…できるの?」

「わからない。だが、やれないか試してみたいんだ」

華を介して紫音とは連絡を取ることが出来た。この閉じられた空間が実在するということが立証できた。
とすると、動けるものならば動き出したい。仕事について、何よりも華と月下美人について、もっと話を詰めたい。紫音だけではなく、響や、そして…。

「君がいない間、ずいぶんやってみた。が、どうやってもここからは出られなかった」

華は内心ホッとした。もしも悠河がどこかへ自由に行き来できるようになったら、ドアを開けた時に悠河がいなくなってしまう…。だが次の瞬間、そう考えた自分にひどく自己嫌悪した。


――悠河をこんなところに閉じ込めておきたいなんて…


「わかった。悠河、やってみよう。…っていってもどうしたらいいかわかんない」

「華が来ると俺自身も周りの風景もはっきりする。ということは君からなんらかの力が働いているんだろう。君に触れると何かエネルギーのようなものが流れ込むのがわかるからな」

同じようなことを昨日も話していた。が、そう言われても自分にはよくわからない。

「そうなの?」

「ああ」

悠河は華の両手を握った。

「これだけでも全然違う。ほら」
よく目を凝らして見ると、悠河の両手がふわりとかすかな淡い光に包まれた。それはそのまま腕から肩、体全体へ染み込むようにして消えていった。

「ほんとだ」

「君の力を借りたら、誰かの夢に入ることだってできるんじゃないだろうか」

「そ…うかなあ…」

「君はもう二度も俺の夢の中に来れたんだからな」

悠河は華の体を引き寄せ、抱きしめた。腕の中に華を閉じ込める。
「ちょ…ちょっと、悠河っ」

「華。響のことを考えてみてくれ」
「え? 響さん?」

ぱっと頭に浮かぶ。あの前髪で隠した響の顔。かすみ草を拒絶してからは全然会っていない。いつもやさしく見守ってくれたかすみ草の人の使い。響さん…



しばしの静かな沈黙。



悠河はゆっくりと目を開ける。そして周囲を見回す。
窓に夕映えの広がる社長室。先ほどと寸分たがわぬ風景。響の姿はない。腕の中に眉間にしわを寄せ懸命に目をつむる華がいるだけ。

――何も変わっていない。そんなに都合よく事が運ぶわけがないか…。


悠河の口元に自嘲的な笑みが浮かぶ。
昨日と同じようにこうして華が来てくれただけでも、奇跡だと感謝しなければならないのだろう。自分が欲張りすぎたのだ。

「華。もういいぞ」

ぱちっと目が開く。華はきょろきょろと頭をめぐらす。

「響さんは?」

悠河が軽く肩をすくめる。

「ダメかあ…」

「そう簡単にはいかないだろう」
早急に何とかしなければならないことは山のようにある。着手し始めたばかりの映画のプロジェクト、後任人事、自分の個人資産。宙に浮いたままの婚約、そして常陸宮との業務提携。何よりも一番気がかりな月下美人と華の処遇。


――自分には一体あとどれくらいの時間が残されているのだろうか。


独りでこの空間に閉じ込められていると頭だけがぐるぐると空回りする。焦りが焦りを呼ぶ。華が来たら真っ先にここから出られないかやってみよう、短時間でもいい、誰かと連絡を取れないか。そればかりを考えていた。所詮無理なことなのだろうか…。

気づくと腕の中にいたはずの華が、ドアの方へ歩いていく。

「どうした?」

「え…うん。何か物音がしたような…」

「そんなはずないだろう」

「そうだよね。…空耳かなぁ」

華はドアノブに手をかけ、そっと開いた。

がちゃり……
がらんとした秘書室が広がる。さっき社長室に入る前に見たのと同じ風景。夕焼けが差し込む机、その上の書類、椅子、観葉植物、誰もいない空間。


――誰もいるわけないよね。

華がドアを再び閉めようとした、
その時。

書類の山の向こうから、立ち上がる姿が見えた。

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