桜華抄
今後の治療方針について秀樹の意向を伺うために、紫音は美都の屋敷へ向かった。
そのような用件がない限り秀樹に会いに行くのは気が進まない。しかし、今の紫音の真の上司は秀樹であり、治療方針を決定できるのは父親の秀樹しかいない。悠河の家族があの秀樹だけだという事実は、そのまま悠河の孤独をより際立たせた。
屋敷には岡山から美都家の親族が集まりざわついていた。
今では旧家としてその名だけにすがっている美都一族にとって、秀樹と悠河はただの邪魔者であった。その悠河の命が突然の事故で風前のともしびと知るや否や、秀樹の兄一家だけでなく遠い親族までもが美都グループの要職を狙って押しかけた。
屋敷は虎視眈々と社長の座を狙い、悠河の死を待ち望む者たちの欲望に満ちている。その冷たい雰囲気は、紫音の心を重く沈ませた。
紫音は庭に面した一室へ案内された。冬枯れの庭を見ながら、しばらく待たされる。重厚な家具と深い緑色のカーテンが部屋の隅で陰鬱な影を作っていた。
車椅子の秀樹が執事を伴い部屋へ入ってくる。紫音は深く一礼した。
「おお。紫音。今回は色々と世話になるな」
「とんでもございません。微力ですがお手伝いさせていただいております」
「悠河があんなへまをしおって」
秀樹は吐き捨てるようにそういうと、車椅子を窓に向けた。どんよりとした曇り空からぱらぱらと小雨が降り始めた。庭の松の葉に小さな水滴がいくつも連なる。
「会長、悠河の今後の治療の件ですが」
「病院長と主治医を呼び出して聞いておる。もう治る見込みがないということだな」
「回復の可能性は1%未満と聞きました」
…でも0%ではありませんわ。紫音は心の中でつぶやく。
「ふん。例え意識が戻っても使い物にはなるまい」
「……」
「あんなに手間をかけて跡継ぎとして育ててやったのに、このざまだ。常陸宮家との婚約は解消され業務提携は凍結、おまけにこの数日、美都芸能での新規業務は全てストップしているではないか」
「……」
「悠河に集中治療など必要ない。特別室でも何でもかまわん。移せ」
眼鏡の奥で紫音の目が一瞬細まる。
「それは、もう積極的な治療は全てやめる、ということでしょうか」
「あたりまえだ」
小雨は次第に雨脚を強め、庭の池にはたくさんの同心円が広がっては重なる。するりと赤い魚が背を見せ、また沈んでゆく。
秀樹は執事の持ってきたお茶をごくりと飲んだ。どっしりとした湯飲みから白い湯気が立ち上る。
「あいつを信じた俺がまぬけだったということだな。他人を信じるなと教育しておいて、俺が信じてしまうとは」
血のつながりがないとはいえ、これが瀕死の息子に対して父親の言う言葉か。
紫音はひどい寒気に襲われた。悠河の孤独を知っているつもりだったが、その理解は表面的なものだったのかもしれない。
「…ところで、あの娘、雪島華を悠河の付き添いにしたのは君だそうだな」
「ええ…」
「そういう情けをかけるようには見えないがな」
「恐れ入ります」
「はっはっはっ。まあ、今さら常陸宮家がどうこう言ってくる問題でもなかろう。かまわぬが…」
秀樹は顎に手をやり、鷹のような鋭い眼光をたたえた目でちらりと紫音を見る。
「まさかと思うが、あの娘に恩を売り、月下美人の上演権を自分に渡すよう影で交渉しているのではないかな、紫音」
紫音の顔は能面のように何の表情も浮かべない。
「さあ、私にはなんのことかわかりませんが」
「上演権をわしに差し出せば、美都で確実に出世できるとでも思っているのかね」
「悠河の許可がなければ、私にはそのようなことはできません」
「相変わらず上手いな、君は。まあ、よい。とりあえず社長代行の三原の秘書としてがんばってくれ」
「…はい」
秀樹の鋭さにひやりとした。
早くに勘付かれては事を仕損じる。
自分の周囲はすべて敵と考えた方がいいだろう――
悠河を失うということは、華だけでなく自分にとってもこれから厳しい戦いが始まるのだ、と紫音は改めて深く実感した。
暗い空から降り続く雨の中、紫音は病院へ向かった。エントランス脇の桜は濃いピンクのつぼみにたくさんの水滴をまとい、昨日からほころぶ様子も無い。
紫音は集中治療室の前で悠河の主治医をつかまえることができた。秀樹の伝言を伝えると医師は銀縁の眼鏡の奥で残念そうな表情を浮かべた。
「そうですか…。ご家族がそういうお考えであればそういたしましょう。今日の午後には特別室へ移れるように手配します」
紫音は深く頭を下げ、やりきれない思いを自分の内側に封じ込めた。
集中治療室前の待合コーナーでは、ぼんやりと缶ジュースを玩ぶ華がいた。
「あ、紫音さん」
ほっとした笑顔を見せる華に、紫音の張り詰めた気持ちも和らぐ。
「華ちゃん。今日は大丈夫そうね」
「はい。少し体が慣れたのかもしれません」
「でも、昨夜はびっくりしたわ。まさか自分の夢の中で悠河に会えるなんて」
華はおかしそうにくすくすと笑う。
「私も。あの時本当は響さんのところに行こうとしていたんです。でも、なぜか紫音さんの夢につながっちゃって」
「そうだったの。でも悠河に会えてよかったわ。これからのあなたことを相談したかったから」
華はこくりとうなずいた。
一途に悠河を心配し、自分がどれだけ体調を崩そうとも悠河のそばを離れない華。華の存在は悠河にとってどれだけ大きなものなのだろうか。
悠河の孤独を埋めてくれる唯一の存在。
紫音は先ほどの秀樹とのやりとりを思い出し、やりきれない気持ちが再び湧いてくるのを感じた。
悠河の回復を一身に祈る華に、どれだけ打撃を与えるのだろうか。できることならば避けたいが、そうもいくまい。
「あのね、華ちゃん」
「はい」
「悠河、今日の午後には集中治療室から特別室へ移ることになったの」
「え…? それって…。どういうことですか? もしかして良くなってきたとか?」
華のその希望が痛々しい。紫音も自動販売機へ向かい、温かいコーヒーを買う。ガタゴトンという音を響かせて缶が落ちる。
「いいえ。美都会長がもう治療の必要はないと判断されたの」
華の目が大きく見開かれる。
「え? …どう…いうことですか?」
かわいそうに。信じられないだろう、華には。悠河が徐々に死へ向かうのを、後はそばでただ見つめていろと言うのはあまりにも残酷すぎる。
紫音はコーヒーを一口飲んだ。雨粒が絶え間なく叩きつける窓の外からはかすかにサーサーと車が行きかう音が聞こえる。
「後は見守るだけ、なのよ。その代わり特別室ならば悠河とゆっくり二人きりですごせるわ」
以前篠崎が二人を気遣い言っていたのと同じ言葉を、今紫音の唇に載せて伝えてもあの温かさは伝わらない。むしろ秀樹の冷酷さがじわりと滲み出すようだった。
「……」
華の背中が震えている。紫音はそっとその背をなでる。
「ごめんなさいね。華ちゃん」
華は俯いたまま缶ジュースを強く握り締めた。指が白くなるほど。
紫音は華の肩を抱く。華は自分の中に籠もるように体を丸め、小さく嗚咽をこぼした。
そのような用件がない限り秀樹に会いに行くのは気が進まない。しかし、今の紫音の真の上司は秀樹であり、治療方針を決定できるのは父親の秀樹しかいない。悠河の家族があの秀樹だけだという事実は、そのまま悠河の孤独をより際立たせた。
屋敷には岡山から美都家の親族が集まりざわついていた。
今では旧家としてその名だけにすがっている美都一族にとって、秀樹と悠河はただの邪魔者であった。その悠河の命が突然の事故で風前のともしびと知るや否や、秀樹の兄一家だけでなく遠い親族までもが美都グループの要職を狙って押しかけた。
屋敷は虎視眈々と社長の座を狙い、悠河の死を待ち望む者たちの欲望に満ちている。その冷たい雰囲気は、紫音の心を重く沈ませた。
紫音は庭に面した一室へ案内された。冬枯れの庭を見ながら、しばらく待たされる。重厚な家具と深い緑色のカーテンが部屋の隅で陰鬱な影を作っていた。
車椅子の秀樹が執事を伴い部屋へ入ってくる。紫音は深く一礼した。
「おお。紫音。今回は色々と世話になるな」
「とんでもございません。微力ですがお手伝いさせていただいております」
「悠河があんなへまをしおって」
秀樹は吐き捨てるようにそういうと、車椅子を窓に向けた。どんよりとした曇り空からぱらぱらと小雨が降り始めた。庭の松の葉に小さな水滴がいくつも連なる。
「会長、悠河の今後の治療の件ですが」
「病院長と主治医を呼び出して聞いておる。もう治る見込みがないということだな」
「回復の可能性は1%未満と聞きました」
…でも0%ではありませんわ。紫音は心の中でつぶやく。
「ふん。例え意識が戻っても使い物にはなるまい」
「……」
「あんなに手間をかけて跡継ぎとして育ててやったのに、このざまだ。常陸宮家との婚約は解消され業務提携は凍結、おまけにこの数日、美都芸能での新規業務は全てストップしているではないか」
「……」
「悠河に集中治療など必要ない。特別室でも何でもかまわん。移せ」
眼鏡の奥で紫音の目が一瞬細まる。
「それは、もう積極的な治療は全てやめる、ということでしょうか」
「あたりまえだ」
小雨は次第に雨脚を強め、庭の池にはたくさんの同心円が広がっては重なる。するりと赤い魚が背を見せ、また沈んでゆく。
秀樹は執事の持ってきたお茶をごくりと飲んだ。どっしりとした湯飲みから白い湯気が立ち上る。
「あいつを信じた俺がまぬけだったということだな。他人を信じるなと教育しておいて、俺が信じてしまうとは」
血のつながりがないとはいえ、これが瀕死の息子に対して父親の言う言葉か。
紫音はひどい寒気に襲われた。悠河の孤独を知っているつもりだったが、その理解は表面的なものだったのかもしれない。
「…ところで、あの娘、雪島華を悠河の付き添いにしたのは君だそうだな」
「ええ…」
「そういう情けをかけるようには見えないがな」
「恐れ入ります」
「はっはっはっ。まあ、今さら常陸宮家がどうこう言ってくる問題でもなかろう。かまわぬが…」
秀樹は顎に手をやり、鷹のような鋭い眼光をたたえた目でちらりと紫音を見る。
「まさかと思うが、あの娘に恩を売り、月下美人の上演権を自分に渡すよう影で交渉しているのではないかな、紫音」
紫音の顔は能面のように何の表情も浮かべない。
「さあ、私にはなんのことかわかりませんが」
「上演権をわしに差し出せば、美都で確実に出世できるとでも思っているのかね」
「悠河の許可がなければ、私にはそのようなことはできません」
「相変わらず上手いな、君は。まあ、よい。とりあえず社長代行の三原の秘書としてがんばってくれ」
「…はい」
秀樹の鋭さにひやりとした。
早くに勘付かれては事を仕損じる。
自分の周囲はすべて敵と考えた方がいいだろう――
悠河を失うということは、華だけでなく自分にとってもこれから厳しい戦いが始まるのだ、と紫音は改めて深く実感した。
暗い空から降り続く雨の中、紫音は病院へ向かった。エントランス脇の桜は濃いピンクのつぼみにたくさんの水滴をまとい、昨日からほころぶ様子も無い。
紫音は集中治療室の前で悠河の主治医をつかまえることができた。秀樹の伝言を伝えると医師は銀縁の眼鏡の奥で残念そうな表情を浮かべた。
「そうですか…。ご家族がそういうお考えであればそういたしましょう。今日の午後には特別室へ移れるように手配します」
紫音は深く頭を下げ、やりきれない思いを自分の内側に封じ込めた。
集中治療室前の待合コーナーでは、ぼんやりと缶ジュースを玩ぶ華がいた。
「あ、紫音さん」
ほっとした笑顔を見せる華に、紫音の張り詰めた気持ちも和らぐ。
「華ちゃん。今日は大丈夫そうね」
「はい。少し体が慣れたのかもしれません」
「でも、昨夜はびっくりしたわ。まさか自分の夢の中で悠河に会えるなんて」
華はおかしそうにくすくすと笑う。
「私も。あの時本当は響さんのところに行こうとしていたんです。でも、なぜか紫音さんの夢につながっちゃって」
「そうだったの。でも悠河に会えてよかったわ。これからのあなたことを相談したかったから」
華はこくりとうなずいた。
一途に悠河を心配し、自分がどれだけ体調を崩そうとも悠河のそばを離れない華。華の存在は悠河にとってどれだけ大きなものなのだろうか。
悠河の孤独を埋めてくれる唯一の存在。
紫音は先ほどの秀樹とのやりとりを思い出し、やりきれない気持ちが再び湧いてくるのを感じた。
悠河の回復を一身に祈る華に、どれだけ打撃を与えるのだろうか。できることならば避けたいが、そうもいくまい。
「あのね、華ちゃん」
「はい」
「悠河、今日の午後には集中治療室から特別室へ移ることになったの」
「え…? それって…。どういうことですか? もしかして良くなってきたとか?」
華のその希望が痛々しい。紫音も自動販売機へ向かい、温かいコーヒーを買う。ガタゴトンという音を響かせて缶が落ちる。
「いいえ。美都会長がもう治療の必要はないと判断されたの」
華の目が大きく見開かれる。
「え? …どう…いうことですか?」
かわいそうに。信じられないだろう、華には。悠河が徐々に死へ向かうのを、後はそばでただ見つめていろと言うのはあまりにも残酷すぎる。
紫音はコーヒーを一口飲んだ。雨粒が絶え間なく叩きつける窓の外からはかすかにサーサーと車が行きかう音が聞こえる。
「後は見守るだけ、なのよ。その代わり特別室ならば悠河とゆっくり二人きりですごせるわ」
以前篠崎が二人を気遣い言っていたのと同じ言葉を、今紫音の唇に載せて伝えてもあの温かさは伝わらない。むしろ秀樹の冷酷さがじわりと滲み出すようだった。
「……」
華の背中が震えている。紫音はそっとその背をなでる。
「ごめんなさいね。華ちゃん」
華は俯いたまま缶ジュースを強く握り締めた。指が白くなるほど。
紫音は華の肩を抱く。華は自分の中に籠もるように体を丸め、小さく嗚咽をこぼした。