桜華抄
華は紫音と別れ、いつものようにホテルで仮眠をとった。
夕方になり、薄暗い部屋に時計のアラーム音が響く。華はベッドに重く沈む体を無理やり持ち上げ、浅いバスタブに張った湯の中に落とす。シャワーカーテンに水しぶきが飛ぶ。頭が重い。まぶたも腫れてきっとひどい顔に違いない。
体を横たえ、肩まで浸かる。温かな湯は華の凝り固まった体をゆっくりとほぐした。
――たとえ治療が打ち切られても、私は希望を捨てない。僅かでも可能性が残っているならば。
私には何か治療ができるわけでもない。そばにいて手を握っているだけ。でも、悠河の世界と行き来できる。
『君に触れると何かエネルギーのようなものが流れ込むのがわかる』
そういえば悠河はそんなことを言っていた。私にも、もっと何かできることがあるかもしれない。
華はその希望を胸の中でぎゅっと握り締めた。
華が夕方病院へ行くと、ナースステーションで篠崎が待っていた。
「特別室に案内するわね」
気遣っているのだろう。華に深く問うことなく、事務的なことだけを淡々と告げた。
「今度は普通の病室だから、帽子やガウンはいらないわ。このまま入っていいからね」
ドアを開けると簡単な応接セットが目に入る。左側にはユニットバス。カーテンで仕切られた窓際にベッドがあった。
「面会謝絶にしてあるし、ここなら二人で静かに過ごせるわ」
「…ハイ」
「そうそう。このまま今夜も泊まるでしょ。簡易ベッドがここにあるから使ってね」
折りたたみ式のベッドと薄い布団が部屋の隅に置いてあった。篠崎の優しさがじんわりと華の心に染み込む。華は深く頭を下げた。
「…ありがとうございます」
「いいのよ。何かあったら遠慮なく言ってちょうだい。ここの病棟の看護師には華さんが泊まることを話してあるから大丈夫よ」
「はい」
篠崎は柔和な目で微笑み、
「それじゃ」
と言い早足で去っていった。
南向きの広い特別室からは、病院前の桜の木がよく見えた。夕方過ぎからは雨も小ぶりになり今はもうほとんど降っていない。ところどころでほころんだ花が白い点描のように霞んで見えた。
窓際のベッドで悠河は眠っていた。集中治療室にいた頃とほとんど変わりは無い。口にはチューブ、枕元に大きな人工呼吸器の機械。色とりどりの線や管がベッドの縁から伸びている。
ただ、今まで悠河の体を取り巻くようにあったたくさんの点滴や注射器の機械が姿を消し、一つの透明な点滴のパックだけがベッド脇の台に吊り下げられていた。
――これが治療を打ち切られたということなんだろうか。
悠河の命がこの透明な液体だけで支えられていると思うと、華はにわかに足元がおぼつかなくなるような不安に駆られた。
華はいつものようにベッド脇に椅子を寄せ、悠河の手を握る。
――今夜も会えますように。きっと会えますように。
二人きりのしんっと静まりかえった部屋はどことなく居心地が悪く、華はすがるように悠河の手を握り締めた。
――よかった。また来れた。
華は社長室のドアをノックし、返事も待たずに駆け出す。
「華」
やはり待っていてくれた。華は何も言わず悠河の胸に飛び込み、背に腕を回しぎゅっと強く抱きしめた。
「どうした? 華」
「…ううん」
「何かあっただろう」
「……」
「言ってみろ。一人で抱えててもよくないぞ」
華はぽつりぽつりと話し出した。秀樹が悠河の治療を打ち切ったこと。集中治療室から部屋を移ったこと。
悠河は背筋を這い上がる悪寒を感じた。
――俺の命は二度見捨てられたか。
予想していたとはいえ、事故に遭って三日で見切られるとは。自分は秀樹が梅の谷で事故に遭った時、あれほど懸命に捜索したというのに。子どもの頃のあの誘拐事件以来秀樹に命乞いをする気はなかったが、それでもあまりに早い決断を聞き、全身に絶望感が広がる。
悠河は華の体を強く抱きしめる。華も悠河の体を強く抱きしめる。
「ねえ、悠河」
「何だ?」
「あのね。たとえ治療が打ち切りになっても、私あきらめないからね」
悠河は腕を緩め、華の顔を見下ろす。
「もう、無理だろう…」
「だから、あきらめないで。私よく言ってたでしょう。1%の可能性にかけるって」
そうだった。華はそうやってあの苦境の中から月下美人を掴んだ。
「ね。だから悠河もあきらめないで」
涙で潤んだ黒い瞳が笑みを浮かべて悠河を見上げる。いつもと変わらぬ夕日のオレンジ色が華の白い頬を染めた。
「わかった。俺もあきらめない」
悠河は華の頬に手を添え、そっと口付けた。
夕方になり、薄暗い部屋に時計のアラーム音が響く。華はベッドに重く沈む体を無理やり持ち上げ、浅いバスタブに張った湯の中に落とす。シャワーカーテンに水しぶきが飛ぶ。頭が重い。まぶたも腫れてきっとひどい顔に違いない。
体を横たえ、肩まで浸かる。温かな湯は華の凝り固まった体をゆっくりとほぐした。
――たとえ治療が打ち切られても、私は希望を捨てない。僅かでも可能性が残っているならば。
私には何か治療ができるわけでもない。そばにいて手を握っているだけ。でも、悠河の世界と行き来できる。
『君に触れると何かエネルギーのようなものが流れ込むのがわかる』
そういえば悠河はそんなことを言っていた。私にも、もっと何かできることがあるかもしれない。
華はその希望を胸の中でぎゅっと握り締めた。
華が夕方病院へ行くと、ナースステーションで篠崎が待っていた。
「特別室に案内するわね」
気遣っているのだろう。華に深く問うことなく、事務的なことだけを淡々と告げた。
「今度は普通の病室だから、帽子やガウンはいらないわ。このまま入っていいからね」
ドアを開けると簡単な応接セットが目に入る。左側にはユニットバス。カーテンで仕切られた窓際にベッドがあった。
「面会謝絶にしてあるし、ここなら二人で静かに過ごせるわ」
「…ハイ」
「そうそう。このまま今夜も泊まるでしょ。簡易ベッドがここにあるから使ってね」
折りたたみ式のベッドと薄い布団が部屋の隅に置いてあった。篠崎の優しさがじんわりと華の心に染み込む。華は深く頭を下げた。
「…ありがとうございます」
「いいのよ。何かあったら遠慮なく言ってちょうだい。ここの病棟の看護師には華さんが泊まることを話してあるから大丈夫よ」
「はい」
篠崎は柔和な目で微笑み、
「それじゃ」
と言い早足で去っていった。
南向きの広い特別室からは、病院前の桜の木がよく見えた。夕方過ぎからは雨も小ぶりになり今はもうほとんど降っていない。ところどころでほころんだ花が白い点描のように霞んで見えた。
窓際のベッドで悠河は眠っていた。集中治療室にいた頃とほとんど変わりは無い。口にはチューブ、枕元に大きな人工呼吸器の機械。色とりどりの線や管がベッドの縁から伸びている。
ただ、今まで悠河の体を取り巻くようにあったたくさんの点滴や注射器の機械が姿を消し、一つの透明な点滴のパックだけがベッド脇の台に吊り下げられていた。
――これが治療を打ち切られたということなんだろうか。
悠河の命がこの透明な液体だけで支えられていると思うと、華はにわかに足元がおぼつかなくなるような不安に駆られた。
華はいつものようにベッド脇に椅子を寄せ、悠河の手を握る。
――今夜も会えますように。きっと会えますように。
二人きりのしんっと静まりかえった部屋はどことなく居心地が悪く、華はすがるように悠河の手を握り締めた。
――よかった。また来れた。
華は社長室のドアをノックし、返事も待たずに駆け出す。
「華」
やはり待っていてくれた。華は何も言わず悠河の胸に飛び込み、背に腕を回しぎゅっと強く抱きしめた。
「どうした? 華」
「…ううん」
「何かあっただろう」
「……」
「言ってみろ。一人で抱えててもよくないぞ」
華はぽつりぽつりと話し出した。秀樹が悠河の治療を打ち切ったこと。集中治療室から部屋を移ったこと。
悠河は背筋を這い上がる悪寒を感じた。
――俺の命は二度見捨てられたか。
予想していたとはいえ、事故に遭って三日で見切られるとは。自分は秀樹が梅の谷で事故に遭った時、あれほど懸命に捜索したというのに。子どもの頃のあの誘拐事件以来秀樹に命乞いをする気はなかったが、それでもあまりに早い決断を聞き、全身に絶望感が広がる。
悠河は華の体を強く抱きしめる。華も悠河の体を強く抱きしめる。
「ねえ、悠河」
「何だ?」
「あのね。たとえ治療が打ち切りになっても、私あきらめないからね」
悠河は腕を緩め、華の顔を見下ろす。
「もう、無理だろう…」
「だから、あきらめないで。私よく言ってたでしょう。1%の可能性にかけるって」
そうだった。華はそうやってあの苦境の中から月下美人を掴んだ。
「ね。だから悠河もあきらめないで」
涙で潤んだ黒い瞳が笑みを浮かべて悠河を見上げる。いつもと変わらぬ夕日のオレンジ色が華の白い頬を染めた。
「わかった。俺もあきらめない」
悠河は華の頬に手を添え、そっと口付けた。