桜華抄
悠河と華は再び響と接触できないか試すことにした。治療が打ち切られた今となっては躊躇している時間など無い。
二人は懸命に響を思い浮かべる。この時間に響が眠りについていることを祈りながら。


悠河はゆっくりと目を開ける。瞬時にそこが社長室でないことがわかり、喜びが体中に込み上げる。
うまくいったかもしれない。腕の中の華の耳元でささやく。

「華、目を開けてごらん」

恐る恐る華は目を開ける。




まるでたっぷりの水にぽつんと青色の絵の具を落としたような水色の空間が広がる。海の底にいるかのように、遠く上の方からゆらゆら揺らめく光が周囲を照らす。ぽつんと置かれた木のベンチに、頭を抱える一人の男性が見えた。

「お前の夢は殺風景だな」

ゆっくりと頭が上がる。信じられないものを見たように目を見開く響。
視線の先には、スーツ姿の悠河と手を繋ぎぴたりと寄り添う華の姿があった。

「…悠河様! 華様!」

「響、あの時は行けずに悪かったな」

「悪かったなど…。あの件でしたら極秘裏に片付きましたので大丈夫です。ご安心下さい」

「ありがとう」

響は伺うように二人を見る。

「悠河様、交通事故で美都病院へ入院されているのでは…」

「そうだ」

「ご容態も悪いとか」

「ああ。意識不明の重体らしい」
悠河は涼しい顔でさらっと言う。響はいまだよくこの状況がつかめていない。うろたえるように視線が泳いだ。

「ここはお前の夢の中だ。ちなみに、俺も華も本物だ」

「…はあ」

「昨夜は失敗したんだが、今日は何とか来ることができた」

「…はあ、そうなんですか」

まだ納得できていない響は二人をまじまじと見つめた。ゆらめく光の中、響の視線が華とつないだ悠河の手に止まる。

「悠河様。あの…。お二人の気持ちは通じた…と思ってよろしいのでしょうか」

「ああ、そうだ」

悠河は晴れやかな笑顔を浮かべる。響もつられて目を細めた。二人のすれ違いを時にやりきれない思いで見守ってきた聖には、我が事のようにうれしい。

「華様、よかったですね」

「…はい。響さん、今までありがとうございました」

ずっとかすみ草の人の使者として、自分と悠河の架け橋となってくれた響。華も微笑み返した。

「ところで、華のことなんだが」
悠河は響の向かい側にいつの間にか現れた木のベンチに華を連れて腰掛ける。まるで古い駅にあるベンチのように懐かしく暖かな手触りがした。

「俺がいなくなると、月下美人含めてやっかいなことになるはずだ」

「何? やっかいって。私何もしてないわよ」

華はちょっと頬を膨らませて憤慨する。

「君が何かをしたわけではない。昨日紫音と話していたのを聞いていただろう。月下美人をめぐって君の周囲が動き出す、ということだ」

「そうですね。月下美人の上演権は美都の権力争いの格好の道具になるでしょう」

響は即座に応じる。

「昨日無理だって言われたけど、私も考えたの。私、月下美人を大切に守っていくって加賀乃先生と約束しました。だから、たとえ私一人でもがんばって守っていきたいの」

悠河は華の手を包むように握りしめる。

「華。確かにそうだ。だがな、上演権を君から奪おうとする者は確実に君を狙ってくる」

「それでも、がんばるわ」

「だから、がんばるとかそういう問題では…」

「もう! 悠河たら、いっつも私を子ども扱いして! 私だってもういい加減大人なんだから、一人でやれます!」

「無理だ」

悠河はついに冷たく言い放つ。

「無理じゃない!」

華も真っ赤になって負けじと言い張る。

「君一人で守りきれるわけがない。冷静に考えてみろ! 君一人で美都側と交渉できるのか? 何かトラブルが起きた時、一人で対処できるか? できるわけがないだろう!」

「そんな…ひどい! 私のこと信じてくれないの?」

「信じるとか信じないとかそういうレベルの話ではない」

「わかんない! もう! そんなこと言う悠河なんてだいっ…」

「華様!」

ヒートアップしていく二人の会話を困った顔で見ていた響だったが、びしっと割って入る。

「お二人とも、お止め下さい」

普段は穏やかな響の厳しい調子に、華も悠河も口をつぐむ。響はふっと表情を崩し、華の方を向く。下ろした前髪に淡い光がゆらゆらと揺れる。

「華様。…では、お聞きします。例えば、華様が舞台に行く途中で何者かに誘拐されたとします。上演時間になっても華様は現れません。舞台の幕を開けることが出来ず、チケットは払い戻しとなります。もし何日も華様が現れなかったら? 月下美人のように代役を立てられない舞台だったら? 莫大な金額の損害賠償請求が突きつけられるかもしれません」

華はしゅんっと俯いた。すぐに思い出す、昔の事件。あれからここまで来るのに、どれだけつらい道を歩んできたことか。ああいうことが、また起こるというのか。

「その賠償金が払えないなら月下美人の上演権を寄こせ、と言われたらどうしますか?」

「渡せません…」

意固地な子どものように華はつぶやく。響はそれを見てそっと微笑んだが、すぐに笑みを消した。鋭いまなざしでさらに問う。

「では、華様。誘拐された上で暴行を受け、その写真をマスコミにばら撒く、と言われたらどうしますか? それを揉み消すために上演権を要求されたらどうしますか?」

華は言葉を失ったまま固まる。

「響!」

悠河は響を睨みつけ、目で牽制する。

「失礼いたしました。でも、そういう事件が起こりうるのです。華様。お一人で抱え込んでもよくありません。これからは私を含め、たくさんの協力者の手を借りて月下美人を守っていくべきだと私は思いますが。いかがでしょうか?」

「…はい」

華は俯いたまま、こくりとうなずいた。悠河はつないだ手を引き、小さな華の肩を抱く。華は悠河を見上げる。

「悠河、あの…ごめんなさい。さっきの言葉…取り消します」

「やっとわかってくれたか。おチビさん」

悠河はやわらかく微笑んだ。

「もう…またおチビさんって言うんだから…」

華は口の中でもごもごとつぶやいた。
悠河ととの話を華は傍らで黙って聞いていた。

「美都に所属したままだと危険だ。独立して個人事務所を紫音に設立させる」

「それが一番かもしれませんね。設立資金はどうなさいますか?」
「俺の株式と外貨を全て売却すれば、まとまった金を華に譲渡できる。響、ネット証券で処分してほしい」

「わかりました。指値でいたしますか? 仰っていただければ…」
「お前にまかせる。成り行きでかまわない。華への譲渡を指示した遺言状も作ってくれ」

「承知いたしました」

「日付は適当でかまわん。サインと印鑑はお前に頼む」

「それは危険では。できれば自筆がよろしいかと」

「そればかりは無理だ。何しろ俺の実体はとても動ける状態ではない。お前の腕なら大丈夫だろう」
「やってみます。とりあえず譲渡金は美都秘書宛てに送ればよろしいですね」

「ああ。…お前には謝らなくてはならない。紫音にお前の名前を教えたよ。薄々感づいていたようだったがな。すまないが俺がいなくなったら協力してやってくれ」

「ええ。こういう事態ですから構いません。悠河様。もちろんご協力いたします」

響は当然のように言う。悠河は信じていたが、やはり力強く感じた。

「悠河様。譲渡となるとかなりの贈与税がかかるのではありませんか。いっそのこと華様を配偶者にすれば、より控除額の大きい相続税の対象に…」

「それはリスクが高すぎる。華にダークなイメージがつくかもしれんだろう」

「…ああ、そうですね。『汚れた月下美人、遺産目当てに結婚か!?』とか」

「いやに具体的だな」

「失礼しました」

「それに相続となるとまた親父達ともめる。それよりは譲渡にした方が面倒がないだろう。税金など心配無い。そんなものはくれてしまえ」

「はあ…」

「税金を払っても手元には少なくとも4億は残るはずだ。響、1億はお前の報酬として取っておいてくれ。3億あれば事務所を立ち上げるには十分だろう」

「1億…」 

「3億…」

響と華が同時につぶやいた。

「あの…悠河、3億なんてお金、いただけません」

華にはその金額がどれくらいのものなのかイメージすら湧かない。
「誰も君にやるとは言ってない。君のマネージメントに使うんだ。間違えるな。まずい芝居を続けてたら、あっという間になくなるぞ」

「あ…はぁ…」

何だかよくわからないけど、やっぱり悠河はすごい。華は自分と手をつなぐこの背の高い端正な顔立ちの人を見つめ、なぜこの人は私のようなチビを好きなのだろう、と改めて疑問に思った。


「月下美人の上演権を華一人の管理に戻さなければならないな」

「そちらも遺言状に加えておきます」

「助かる。今思えば、上演権の契約の時に華がすんなり俺との共同管理を受け入れてくれたのが幸いだな」

「な…なんで? 私…悠河と一緒に守っていければいいって思っただけだけど」

二人の会話についていけない華は戸惑う。

「もしも、君一人の名義だったら今頃美都に持っていかれていたぞ。俺の名前があるから、美都側はすぐには手を出せない」

「そうなんだ…」

「だからこそ、華様の身に危険が起る可能性が高いんですよ。相手は必死ですからね」

「はい…」

「誰か、俺の代わりに華の後ろ盾になってくれる人物がいればいいんだがな」

「悠河様にお心あたりは?」

「色々考えて紫音にも助言したが、親父の圧力に屈しない人物というのはなかなかいない」

「あの…演劇会長さんは…?」

華はおずおずと訊いてみる。

「会長は一女優の個人事務所の重役などにはなれないし、美都とも関係がある」

「そうなんだ。じゃ、響さんは?」
「私はできません。色々事情があるんです」

「そんなぁ…」

「俺も考えたんだがな、響。戸籍なんて今のお前ならすぐに手に入るだろう。重役にお前の名前があれば、裏のやつらは手出しできない」

「そうですが、もし私の過去をマスコミに嗅ぎつけられたら、華様のイメージが…」

「そうか、そうだな」

「何がそうなの?」

「まあ、いい。華、そういうことだ」

「そうなんですよ、華様」

「何が何だかさっぱりわからない…」

華は二人の顔を見比べてため息をついた。

「とりあえず、響、遺言状と株と外貨の処分を頼む」

「悠河様、証券会社のパスワードは…」

悠河は一瞬口ごもった。

「響、ちょっと来い」

「はい…?」

悠河は響に耳打ちした。悠河は少し頬を赤くして顔を背ける。ぴんときた響はやわらかな笑みを浮かべ、華を見る。

「え? 何? 響さん」

「いいえ。なんでもございません」

「響、そのパスワードでアクセスできれば、俺のこの存在も信じるだろう」

「すでに信じております。悠河様」

悠河は立ち上がり、響肩をの肩を掴む。悠河の低い声が響の耳元でささやく。

「もしかしたら、こうしてお前に会えるのもこれが最後かもしれない。今まで影として支えてくれてありがとう。感謝している」

「悠河様! まだ回復の可能性だってあるのでは…」

「いや。もうそれは厳しい。今日親父に治療を打ち切られた」

「え…」

「お前はもともと親父に使えていた身だ。もしも立場が危うくなるようなら、無理はしないでくれ」
「私は悠河様だけに仕えております。ご安心を」

右手は華とつないだまま、悠河は左手で響の肩を引き寄せた。

「ありがとう。響。これからも、華を頼む」

「承知いたしました。悠河様。私の方こそ…今まで…ありがとうございました」


響が悠河と華から離れ、深く一礼する。
すっと周囲の水色が濃くなる。青から群青、そして深い藍色となり、響の姿は溶けていった。
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