桜華抄
夕暮れの社長室。悠河は椅子に深く身を沈め、窓の外を見ていた。
先ほどより右手に温かさを感じる。赤に近い橙色の空に黄色が混ざり始め、光量も徐々に増してきた。きっともうすぐ華が来るのだろう。
昨日は響に会えた。自分が信じていた通り、響の協力が得られたことは大きい。華の個人事務所の件が少しずつ前進し始める。これで、華を守っていける。

悠河は深く呼吸した。そして椅子から立ち上がり、気持ちを奮い立たせるために背を伸ばす。
今まで保留にしていたが、きちんと自分で決着をつけなければならないことがある。

いくら向こうから解消されたとはいえ、元々の原因を作ったのは自分だ。本来ならば自分一人で向かわなければならない。しかし今の状態ではとても無理だ。華の協力を仰がねば、たとえ行けたとしてもあっという間に消耗してしまうだろう。

気が重かった。

連れて行きたくない。

華は嫌がるかもしれない。

彼女に積極的に会いたいはずがない。しかし…


――コンッコンッ


いつものノックの音。と同時に華がドアの影から顔を覗かせる。

「おいで」

その一言で華は花がほころぶような笑顔で悠河の元へ駆けてくる。
唯一無二の存在。この華を何の陰りもなく自分の手に抱くために、俺はしなければならない。悠河は心を決め、華へ告げた。


冷たい風が萌黄色の新芽を揺らし雑木林の中を吹き過ぎる。空は晴れているのに肌寒い。
華は小さく震え、つないだ悠河の腕に身を寄せた。悠河は二人分の手を自分のポケットに入れる。悠河の体温が直に伝わり、それだけで華の体はほうっと温かくなった。
小道の向こうに人影が見えた。ゆったりとしたコートに春めいた淡い黄色のストールを羽織る後ろ姿。
遠くからでもは圧倒されるような品のよさと美しさを感じる。
そっと悠河を見上げる。よほど華が心細そうな顔をしていたのか、は軽く笑みを浮かべ「大丈夫だ」とささやいた。

「美妃さん」

悠河はその後ろ姿に声をかける。
「まあ、悠河様…?」

美妃が華やかな笑顔で振り向き、そのまま凍りついた。

「華さん…」

「美妃さん。ご挨拶に参りました」

美妃は固い表情を浮かべていたが、すぐにそのこわばりは溶けるように消えていった。そしてやわらかに微笑む。

「わたくしのところに来てくださるなんて。嬉しいですわ」

「必ず伺わなければ、と思っておりました」

「それは恐縮です。ここでは寒いですわね。どうぞこちらへ。すぐそこが入口です」

美妃の後ろを、悠河と華が続く。
美妃の目の前で悠河と手をつないでいる。このありえない状況にどうにも落ち着かない気持ちで華は下を向いて歩いた。

暖かな暖炉の火が揺れる部屋に通された。いたるところにたくさんの花をつけた蘭の鉢が置いてある。甘い花の蜜の香りが辺りに漂う。
ふんわりと体が沈み込むクリーム色のソファに悠河と華は腰を下ろした。向かいに美妃がゆったりと座る。

「きれいでしょう。こちらはまだ気温が低いから、まだシンビジウムが咲いてますの。今年はファレノプシスも調子が良くて。やはりこちらの方が夏も涼しくて育てやすいですわ。東京では水遣りを気をつけないと、あっというまに根腐れを起こしてしまいますから」
まるで旧知の友を迎えるような打ち解けた美妃の様子に、悠河も華も戸惑いを隠せない。

「美妃さん。僕はあなたに謝らなければなりません」

「華さんと思いが通じたこと? それで婚約を解消してほしいと?」

「ええ」

美妃は微笑み、おっとりと口元に手を当てた。それだけで優雅な空気が舞う。

「そんなこと。今さら…」

「でも、きちんとお話しておかなければならないと思いまして」

「悠河様はご存じないでしょうか。悠河様が事故に遭われて重体になった直後、父はこの婚約を解消すると言いました。『死に行く者に大事な娘はやれない』ですって」

「……」

「ですから、悠河さまに謝っていただくことも、私の許可を得る必要もありませんわ」

「しかし…」

「そうですわね。謝っていただけるのでしたら…」

美妃は手を伸ばし、飾り棚の上で白く丸い花びらを広げたファレノプシスにそっと触れる。

「…悠河様はいつか私に仰いましたね。『僕だけを見ていなさい』と」

美妃は柔らかな声を転がしておかしそうに笑う。暖炉の火がぱちんとはぜる音がした。

「あなたはわたくしのことなど一度も見ていなかったのに…。ろくに恋の経験もなかったわたくしは、すっかり騙されあなたに夢中になってしまいました。政略結婚なんてどこにも恋など入る余地はありませんのに。この常陸宮の家に生まれ育ったわたくしはそんなこと充分知っていたはずなのに。おかしいですわね」

悠河も華も言葉が出ない。ただじっと美妃を見つめる。蘭の甘い香りが濃く漂う。

「ねえ、聞いて下さいますか――
わたくし、とても苦しかった。恋とはもっと温かく楽しいものだと想像してました。
でも現実は苦しくて嫌な思いばかりでしたわ。
悠河様はパーティーでどんなにやさしくわたくしをエスコートしていても、華さんの姿があると眼差しはそちらを追いました。
華さんの声が聞こえれば、悠河様の意識はそちらへ向かう。例えわたくしが悠河様と腕を組みどんなにそばにいようとも。
パーティーの度にそれに気づいては、心が引きちぎられるように痛みました。
どんなに苦しいことか、わかって?
次第に華さんが憎しみの対象になりました。テレビや新聞で名前も見かけるのすら、嫌でした。そして嫉妬で自分がどんどん醜く汚くなっていくのが嫌でたまりませんでした。

次第に、自分をそんな風に変えた華さんの存在自体が許せなくなってしまったんです。華さんさえいなくなれば、こんな汚い自分も消える。元の穏やかなわたくしに戻れる…そう思いました。
勝手でしたわ…。わたくし。
子どもがダダをこねるように、わたくし、悠河様に色々と手を焼かせました。愚かでした。そんなことをしたって、悠河様のお心は華さんのところにあるのに。自分は愛されていないと認めたくなかったんです。

わたくしには常陸宮という家柄があり、小さな頃から教養も美しさも兼ね備えるよう教えられました。自分はすべてを身につけ、常陸宮の娘として恥ずかしくなく育ったと思っておりました。
それなのに、悠河様のお心は私には決して向いてくれない。…どうしたらいいのかわかりませんでした。どうしたら、愛されるのか。これ以上何を手に入れれば、悠河様はわたくしを見てくれるのか。
…無力感に苛まれました。今までの自分が全て否定されてしまうようで、とても怖かった…。
その恐怖感に打ち勝つために、わたくしは華さんを標的に決めました。
この人を消してしまおうと。この人さえいなくなればすべてうまくいくと思いました。嫉妬で狂う自分も消える、悠河様のお心は迷わず自分に向いてくれる、と。
華さん。それだけあなたの存在が怖かったんですわ。
ひどいでしょう。わたくし自身の問題なのに、全てを華さんのせいにして。
それで……。わたくし、本気であなたを殺そうと計画したんです。華さん。

……あら。悠河様、そんなに驚かれて。ご存じなかったんですか?
雑誌記者にスキャンダルを書かせようとしたのは、ほんの前段階です。その時点で悠河様に気づかれきつく糾弾されて、わたくしも目が覚めましたけど。
常陸宮の力を持ってすれば、あなたのような女優一人芸能界から消すことなど、容易なことです。
でもわたくしの目的は違いました。あなたの存在自体をこの世から消したかったのです。
…恐ろしいでしょう。
あの時、悠河様はそれまでわたくしの前で装っていたやさしいお顔を捨てました。華さんを守るために。わたくしに隠すことなく怒りをぶつけました。怒りで我を忘れていらっしゃったようでしたわ。
わたくしとてもうれしかった。ああ、本当の悠河様にお会いできた、と絶望の中で思いました。
目が覚めました。こんなことをしていても何にもならない。悠河様のお心はどうやっても私のところにはないのだと。
けれども、わたくしは自分のしたことをちゃんと受け止め、謝ることなどできない子どもでした。
逃げるようにこの別荘へ来ました。もうとても悠河様や華さんの近くにはいられない精神状態でしたし…。
ここでゆっくりと自分を見つめて過ごしました。ずっと不眠で苦しんでおりましたから、心の治療も受けました。
そしてしっかりと理解しました。どんなに自分が未熟で自分勝手だったか。
でもそれに気づき理解しても、実際に行動にはなかなか移せませんでした。
悠河様へ婚約解消を言い出せずに、どんどん時は経ちました。冬になったら、春になったら、もう少し温かくなったら…と先延ばしにしてしまって。
そうしていたら、悠河様があんなことに…。
後悔しました。このまま悠河様が消えてしまったら、わたくしは死ぬまでこの後悔を引きずって生きていかなければならない。目の前が真っ暗になりました。
ええ。倒れたのはその時ですわ。
悠河様のご容態を心配するよりも、自分が永遠に後悔を続けていくことの方が怖くて。婚約者の資格などありませんわね。
わたくし、今はもう悠河様に対して恋という感情はありませんの。もう過去のことなのだとはっきり気づきました。
先ほど寄り添うお二人の姿を見て、すーっと気持ちが冷めていくのがわかりました。ああ、わたくしではない、と。悠河様の隣に立つのはわたくしではない、と全身で理解できました。
こんな気持ち、華さんにはわからないでしょうね。
ずっと手をつないでらっしゃるのね。少々妬けますわ。

まあ、これ、わたくしの夢の中なんですの? そう言われればそうかしら。
確かに他人の夢の中なんて、疲れそうですわね。こんな話を延々と聞かされて。ふふふ…。
ねえ、華さん。
わたくし今、少しずつですけど主治医の先生の下で勉強しておりますの。わたくしはずっと家の中にこもって育ってきたせいで、人との関わる経験が少なすぎるんですって。だから恋も人付き合いもうまくいかないと歪んだ方向へ行ってしまう。
その練習を少しずつしております。今も練習の成果が現れていればいいんですけど。
華さん。あなたが悠河様を愛してらっしゃるのは素晴らしいことです。悠河様が華さんを愛していらっしゃるのも素晴らしいこと。

わたくしがずっとそれを受け入れられなかったのは、あくまでわたくしの問題ですの。わかるかしら。
ですから、わたくしに申し訳ないなどと気兼ねする必要はありませんわ。わたくしの家柄と比べてどうこう、とかそんなことも考える必要はありませんのよ。
華さん。自信を持って、悠河様を愛してください。
そして、悠河様。どうぞご自由に、心のままに華さんを愛してくださいませ。

美妃からのお願いです――
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