桜華抄
華が月下美人に決まり、美都芸能本社に所属するようになってすぐに、セキュリティーのしっかりしたマンションへ移るように言われた。派遣社員の時のように営業部との交流を制限したりせず、麗のアパートからできるだけ近い物件をいくつか紹介された。華は最初はアパートを出ること自体を嫌がった。自分は今まで狭いところでしか暮らしたことが無いから、一人暮らしは寂しいし怖い、と。麗に同居するよう華は頼んだが、マンションなど麗の収入ではとても折半できない。かといって華に全額負担させて住むのも嫌だった。結局元のアパートに一番近いこのマンションに華はしぶしぶ引っ越した。
「彼氏ができても、ここなら広くていいんじゃない?」
軽い調子で麗が言うと、華は哀しげに俯いた。
今までも華が恋をしているのかもしれないと思ったことはあった。しかし,幸せそうな表情はほとんど見たことがない。いつも華は切なそうにしていた。引っ越し荷物の積まれた部屋で、華は心の中に収まりきれずにあふれ出す悠河への一途な思いをぽつりぽつりと麗に話した。
――まさか悠河君もまだ華を思っていたとは。
紫音が先ほどの電話で確かに言った。
「悠河も華ちゃんのことを愛してました」
と。
何とも不器用な二人だ。出会って一体何年になるんだ。ずっと想い合っていたのにすれ違い続けたのだろうか。こんな事態になって第三者からそれを知らされるとは。
華が混乱するのもよくわかる。よくわかるが、今はぼんやりしている場合ではないだろう。何しろ悠河は意識不明の重体だ。華に目を覚まさせなければ。このままでは付き添いなんてできやしない。
麗はうなだれてついてくる華に、諭すようにゆっくりと話しかけた。
「華。こんな状況でしっかりしろ、というのは無理なことかもしれない」
「……」
「でも敢えて言うよ。しっかりしなさい」
華は何も答えずにぼんやりしていた。月明かりが華の横顔を照らす。そこには何の表情も無い、虚ろな白い顔が浮かぶ。
「華。今一番大変なのは、誰?」
華はピントの合わない目を麗に向ける。
「え?……」
突然の麗の問いが耳を素通りする。が、脳の奥に届いた時、ぱちんとはじけた。
瞬間、華の目に生気が戻る。
「…悠河…だ…」
「あなたがうろたえるのはわかるけど、そこのとこ忘れちゃいけない」
「うん」
華はうなずいた。
急に悠河が自分を愛していたなんて言われても信じられないし、もしかしたら紫音さんの勘違いかもしれない。けれど、悠河のそばにいられるならばずっとついていたい。
「1%でも可能性があれば絶対にあきらめないんでしょ?華は」
頬をぶたれたような感じだった。自分が以前何度も悠河に言った言葉。
そうだ。私は1%でも可能性があれば、それに賭けてきた。紫音さんは意識が回復する可能性は1%にも満たないって言ってたけれど、それでもまだ少しでも可能性があるならば、悠河と一緒にがんばりたい。
華に力が灯る。麗はそれを見届けて微笑を浮かべた。
いつもの華に戻った。これからつらい日々が続くかもしれないが、きっとこれなら大丈夫だろう…麗は祈るように思った。
マンションに着く。
麗は華の乱れた髪を手櫛で整えてやり、着替えを手渡した。
「ほら、まずは着替えて。荷物はわたしがまとめるから」
「ありがとう、麗」
華は麗の首に手を回し抱きついた。麗もしっかりと華を抱きしめる。紫音の電話からずっと出なかった涙が、ぽろぽろと頬を流れる。
――そうだ。悠河と一緒に、がんばろう。
「さ、涙を拭いて。しっかりするのよ」
「うん。ありがとう」
華はマンションの玄関ホール前に立つ。麗は「連絡よこしなよ」と言い置いて帰っていった。華は空を見上げた。
雨上がりの少し湿気の混ざった匂いが、おだやかな春の夜の空気に溶けている。
かけ始めた月が夜空を白く照らす。時折流れてくるうす雲に覆われ、月はぼんやりとした輪をまとっていた。
夜の病院は思ったよりも静かだった。
紫音の後についてガウンとマスクと帽子を身に着け、消毒液をつけた手をこすりながら、華は集中治療室へと足を踏み入れた。深夜に煌々と灯る蛍光灯の下、カーテンで仕切られたベッドが並ぶ。紫音が看護師にあいさつを告げ、スタスタと前を行く。華もあわてて頭を下げる。
「ここよ」
そっとカーテンの隙間からベッドに近づく。
悠河はまるで眠っているようだった。
頭に包帯を巻いて、右の頬に軽い擦り傷が見えた。病院の薄青い色の寝巻きからは健康そうに上下する胸が少しはだけて見える。
ただ、いつもと決定的に違うのは、口にはチューブが入り、枕元の機械からはシューッッゴーという規則正しい音がしていること。点滴や様々な色の線や管が悠河の体を取り巻くように伸び、それぞれの機械につながっている。遠くから規則正しいピッピッピッピッという電子音が聞こえた。
車の中で紫音がざっと説明してくれた。
夕方悠河は会社近くのホテルでの新作化粧品の記者会見を終え、歩いて戻ってくる時に事故に遭った。前を歩く子どもに無謀運転の車が突っ込んで来て、とっさにその子を突き飛ばした悠河が車にはねられたのだ。そして倒れた時に頭を強く打ったせいで頭蓋内でひどい出血が起こり、それが原因で意識不明になってしまった。
話終わると紫音は疲れたように、大きなため息をついた。
「いつもならば、近くても社用車を使うんだけど、今日はたまたまどこかに立ち寄るつもりだったらしくて…」
華は悠河の整った顔をみつめる。こんなに近くで見るのは久しぶりだった。最近は、もうすぐ結婚してしまう悠河の顔を見るがつらくて、ちょっと姿が見えるだけでも避けていた。
子どもをかばって車にはねられた悠河。いつかの縁日でも泣いている迷子の子を肩車してお母さんを探してあげた。そんなことを何のてらいもなく当然のようにできる人。それで自分がこんなことになっちゃうなんて。
「そういえば、子どもさんは大丈夫だったんですか?」
「ええ。かすり傷ぐらいで済んだみたいよ」
「悠河らしいですよね。子どもをかばうなんて。ホントはやさしいから…」
紫音は微笑を浮かべた。
「会社では『社長らしくもない』って大騒ぎだったわ。やっぱり華ちゃんは、悠河のことを一番よくわかっているのね」
「…でも、悠河が私のことまだ好きだったなんて、全然分かりませんでしたけど」
「そうね」
二人で笑った。目の前では悠河が穏やかな顔で眠っているように見える。今にも目を開けて『おい、二人で何を笑ってるんだ?』なんて言いそうなのに。
涙が瞼の裏で盛り上がった。視界がぼやける。華はぐっとこぶしを握り、奥歯に力をいれた。
紫音からざっと集中治療室について説明されたところで、一人の看護師がカーテンから顔を覗かせた。
「紫音、ちょっといい?」
「ああ、夜勤だったわね」
「そう。付き添うって言ってたのは、この子ね。主任の篠崎です。よろしく」
丸顔に太い下がり眉毛、そして柔和な目が帽子とマスクの間に見える。
「あ、よろしくお願いします。雪島です」
華はあわててペコリとおじぎをした。紫音が篠崎の脇に立つ。
「彼女は私の高校の同級生なの。わからないことがあったら、彼女に聞くといいわ」
篠崎はゆっくりとうなずき、華に微笑みかけた。
「あ、ハイ」
「華ちゃん、私ちょっと篠崎さんと話してくるからここで待っていてちょうだい」
二人はカーテンから出て行き、華一人が悠河の傍に残された。
華はそっと悠河の右手を握る。温かな手。こんなに手は温かいのに、意識は戻らないんだろうか。
椅子を引き寄せ、腰掛ける。ちょうど目の前に悠河の顔が見える。
包帯からはみ出す柔らかそうな髪、おだやかな表情の眉、彫りの深い目、すっと通った鼻筋。口にはチューブが入り、その周りは白いテープで固定されていた。いつもは、こんなもの無いのに。
華は悠河の手をぎゅっと握り、自分の頬を近づける。
――ずっとそばにいるわ。悠河。だから、きっと、きっと、よくなってね。
華は目をつぶる。ふと頭痛は消えていることに気づいた。いつ消えたんだろう。この病院へ着いた時はまだ頭が重かったのに。
悠河のそばに来たら消えた? もしかして夕方の突然の頭痛は、悠河が事故に遭った時…? まさか。そんなことは。
悠河に会えた安心感からか強い眠気が襲ってきた。いつもならば布団でぐっすり眠っている時間だ。ここ、集中治療室なのに…。でも、眠い…。
華は悠河の手を握ったままベッドに頭をもたれかけて、そのままうとうとと眠り込んだ。
篠崎は紫音を連れて、集中治療室の脇の小部屋に入る。小さなローテーブルをはさんでソファが二つ置いてあった。その横の壁にはレントゲン写真を掲げる台があり、煌々と蛍光灯が点いている。テーブルの上には無造作に投げ出されたレポート用紙とボールペン。
「また、あの先生は点けっぱなしにしていくんだから…」
篠崎はあきれたようにつぶやき、蛍光灯を消す。
「どうぞ、座って」
紫音は待合室でよく見るような無愛想な茶色のソファに腰を下ろす。部屋の奥の小さなポットで篠崎はコーヒーを淹れる。
「ここは患者さんのご家族に説明をする部屋なの。今の時間ならたぶん誰も来ないわ。…どうぞ」
紙コップに入れられたコーヒーからは温かな湯気が立つ。紫音はその香りを深く吸い込み、一口啜った。
「ああ、ホッとするわ」
「夕方から休みなしだったものね。お疲れ様」
「あなたにはずいぶん助けられたわ。ありがとう」
「いいえ、そんな。元生徒会長様のお手伝いぐらい、いくらでも」
篠崎は丸顔の頬にえくぼを作り、いたずらっぽく笑った。
「ごめんなさいね。本当は付き添いは禁止でしょう?」
「本当は…ね。でもこの病院のVIPの方だし、今日明日は私が夜勤だから何とかなるわ。日中は面会時間以外はちょっと無理だけど」
「了解。いずれにしても日中はホテルで休ませるわ」
篠崎はコーヒーのカップを両手で包むように持った。
「それにしても、従弟とはいえずいぶん肩入れしているのね。紫音らしくない感じがするわ」
「…そうね。あの二人とは付き合いが長いから」
「あの子、婚約者の方とは違うわよね。確か…女神の時代のモデルさんでしょ」
紫音はため息を一つついた。
「そう。あの二人がもう少し自分の気持ちに正直になっていたら、状況はずいぶん違っていたと思うんだけど」
「昔の恋人なの? 家柄のいい婚約者ができたから彼女が身を引いた、とか?」
「そうなのよ。はたから見ていてイライラしてくるのよ」
篠崎はクスリと笑い、コーヒーを一口飲む。
「それで肩入れしちゃうんだ」
「最期ぐらいは一緒にいさせてあげたいじゃない」
眼鏡の陰で紫音の目が少し揺れたように見えた。
篠崎はテーブルのレポート用紙を揃え、ボールペンとまとめてテーブルの端へ片付ける。
「…ねえ、お部屋の件、美都会長にお伝えしてね。言いにくいことだと思うけど」
「わかったわ」
「こちらももちろん全力を尽くします。でも主治医の先生の話ではかなり厳しいらしいの。通常ならばもう積極的な治療という段階ではないらしいわ」
「…ええ。聞いているわ」
紫音は眼鏡を外し、眉間に指を当てる。
「午前中色々検査するし、それでまた方針が変わるかもしれない。回復の手立てがあったら必ず治療するから」
篠崎はできるだけ明るい口調で言ってみたものの、紫音の表情は厳しいままだった。
「会長は、悠河が亡くなられてからの今後の事業のことで頭が一杯のようだったし、どうご判断されるか…」
「実の息子でしょ」
「普通の親子の絆なんて考えない方がいいわ。婚約者の家から婚約解消、業務提携解消の話が持ち上がって会社は大混乱よ」
「なんだか、お偉い方たちの世界って…難しい」
紫音は疲れたように片頬で笑った。
「本当に。目の前の幸せを考えたなら、もう少し簡単になるでしょうに」
「彼氏ができても、ここなら広くていいんじゃない?」
軽い調子で麗が言うと、華は哀しげに俯いた。
今までも華が恋をしているのかもしれないと思ったことはあった。しかし,幸せそうな表情はほとんど見たことがない。いつも華は切なそうにしていた。引っ越し荷物の積まれた部屋で、華は心の中に収まりきれずにあふれ出す悠河への一途な思いをぽつりぽつりと麗に話した。
――まさか悠河君もまだ華を思っていたとは。
紫音が先ほどの電話で確かに言った。
「悠河も華ちゃんのことを愛してました」
と。
何とも不器用な二人だ。出会って一体何年になるんだ。ずっと想い合っていたのにすれ違い続けたのだろうか。こんな事態になって第三者からそれを知らされるとは。
華が混乱するのもよくわかる。よくわかるが、今はぼんやりしている場合ではないだろう。何しろ悠河は意識不明の重体だ。華に目を覚まさせなければ。このままでは付き添いなんてできやしない。
麗はうなだれてついてくる華に、諭すようにゆっくりと話しかけた。
「華。こんな状況でしっかりしろ、というのは無理なことかもしれない」
「……」
「でも敢えて言うよ。しっかりしなさい」
華は何も答えずにぼんやりしていた。月明かりが華の横顔を照らす。そこには何の表情も無い、虚ろな白い顔が浮かぶ。
「華。今一番大変なのは、誰?」
華はピントの合わない目を麗に向ける。
「え?……」
突然の麗の問いが耳を素通りする。が、脳の奥に届いた時、ぱちんとはじけた。
瞬間、華の目に生気が戻る。
「…悠河…だ…」
「あなたがうろたえるのはわかるけど、そこのとこ忘れちゃいけない」
「うん」
華はうなずいた。
急に悠河が自分を愛していたなんて言われても信じられないし、もしかしたら紫音さんの勘違いかもしれない。けれど、悠河のそばにいられるならばずっとついていたい。
「1%でも可能性があれば絶対にあきらめないんでしょ?華は」
頬をぶたれたような感じだった。自分が以前何度も悠河に言った言葉。
そうだ。私は1%でも可能性があれば、それに賭けてきた。紫音さんは意識が回復する可能性は1%にも満たないって言ってたけれど、それでもまだ少しでも可能性があるならば、悠河と一緒にがんばりたい。
華に力が灯る。麗はそれを見届けて微笑を浮かべた。
いつもの華に戻った。これからつらい日々が続くかもしれないが、きっとこれなら大丈夫だろう…麗は祈るように思った。
マンションに着く。
麗は華の乱れた髪を手櫛で整えてやり、着替えを手渡した。
「ほら、まずは着替えて。荷物はわたしがまとめるから」
「ありがとう、麗」
華は麗の首に手を回し抱きついた。麗もしっかりと華を抱きしめる。紫音の電話からずっと出なかった涙が、ぽろぽろと頬を流れる。
――そうだ。悠河と一緒に、がんばろう。
「さ、涙を拭いて。しっかりするのよ」
「うん。ありがとう」
華はマンションの玄関ホール前に立つ。麗は「連絡よこしなよ」と言い置いて帰っていった。華は空を見上げた。
雨上がりの少し湿気の混ざった匂いが、おだやかな春の夜の空気に溶けている。
かけ始めた月が夜空を白く照らす。時折流れてくるうす雲に覆われ、月はぼんやりとした輪をまとっていた。
夜の病院は思ったよりも静かだった。
紫音の後についてガウンとマスクと帽子を身に着け、消毒液をつけた手をこすりながら、華は集中治療室へと足を踏み入れた。深夜に煌々と灯る蛍光灯の下、カーテンで仕切られたベッドが並ぶ。紫音が看護師にあいさつを告げ、スタスタと前を行く。華もあわてて頭を下げる。
「ここよ」
そっとカーテンの隙間からベッドに近づく。
悠河はまるで眠っているようだった。
頭に包帯を巻いて、右の頬に軽い擦り傷が見えた。病院の薄青い色の寝巻きからは健康そうに上下する胸が少しはだけて見える。
ただ、いつもと決定的に違うのは、口にはチューブが入り、枕元の機械からはシューッッゴーという規則正しい音がしていること。点滴や様々な色の線や管が悠河の体を取り巻くように伸び、それぞれの機械につながっている。遠くから規則正しいピッピッピッピッという電子音が聞こえた。
車の中で紫音がざっと説明してくれた。
夕方悠河は会社近くのホテルでの新作化粧品の記者会見を終え、歩いて戻ってくる時に事故に遭った。前を歩く子どもに無謀運転の車が突っ込んで来て、とっさにその子を突き飛ばした悠河が車にはねられたのだ。そして倒れた時に頭を強く打ったせいで頭蓋内でひどい出血が起こり、それが原因で意識不明になってしまった。
話終わると紫音は疲れたように、大きなため息をついた。
「いつもならば、近くても社用車を使うんだけど、今日はたまたまどこかに立ち寄るつもりだったらしくて…」
華は悠河の整った顔をみつめる。こんなに近くで見るのは久しぶりだった。最近は、もうすぐ結婚してしまう悠河の顔を見るがつらくて、ちょっと姿が見えるだけでも避けていた。
子どもをかばって車にはねられた悠河。いつかの縁日でも泣いている迷子の子を肩車してお母さんを探してあげた。そんなことを何のてらいもなく当然のようにできる人。それで自分がこんなことになっちゃうなんて。
「そういえば、子どもさんは大丈夫だったんですか?」
「ええ。かすり傷ぐらいで済んだみたいよ」
「悠河らしいですよね。子どもをかばうなんて。ホントはやさしいから…」
紫音は微笑を浮かべた。
「会社では『社長らしくもない』って大騒ぎだったわ。やっぱり華ちゃんは、悠河のことを一番よくわかっているのね」
「…でも、悠河が私のことまだ好きだったなんて、全然分かりませんでしたけど」
「そうね」
二人で笑った。目の前では悠河が穏やかな顔で眠っているように見える。今にも目を開けて『おい、二人で何を笑ってるんだ?』なんて言いそうなのに。
涙が瞼の裏で盛り上がった。視界がぼやける。華はぐっとこぶしを握り、奥歯に力をいれた。
紫音からざっと集中治療室について説明されたところで、一人の看護師がカーテンから顔を覗かせた。
「紫音、ちょっといい?」
「ああ、夜勤だったわね」
「そう。付き添うって言ってたのは、この子ね。主任の篠崎です。よろしく」
丸顔に太い下がり眉毛、そして柔和な目が帽子とマスクの間に見える。
「あ、よろしくお願いします。雪島です」
華はあわててペコリとおじぎをした。紫音が篠崎の脇に立つ。
「彼女は私の高校の同級生なの。わからないことがあったら、彼女に聞くといいわ」
篠崎はゆっくりとうなずき、華に微笑みかけた。
「あ、ハイ」
「華ちゃん、私ちょっと篠崎さんと話してくるからここで待っていてちょうだい」
二人はカーテンから出て行き、華一人が悠河の傍に残された。
華はそっと悠河の右手を握る。温かな手。こんなに手は温かいのに、意識は戻らないんだろうか。
椅子を引き寄せ、腰掛ける。ちょうど目の前に悠河の顔が見える。
包帯からはみ出す柔らかそうな髪、おだやかな表情の眉、彫りの深い目、すっと通った鼻筋。口にはチューブが入り、その周りは白いテープで固定されていた。いつもは、こんなもの無いのに。
華は悠河の手をぎゅっと握り、自分の頬を近づける。
――ずっとそばにいるわ。悠河。だから、きっと、きっと、よくなってね。
華は目をつぶる。ふと頭痛は消えていることに気づいた。いつ消えたんだろう。この病院へ着いた時はまだ頭が重かったのに。
悠河のそばに来たら消えた? もしかして夕方の突然の頭痛は、悠河が事故に遭った時…? まさか。そんなことは。
悠河に会えた安心感からか強い眠気が襲ってきた。いつもならば布団でぐっすり眠っている時間だ。ここ、集中治療室なのに…。でも、眠い…。
華は悠河の手を握ったままベッドに頭をもたれかけて、そのままうとうとと眠り込んだ。
篠崎は紫音を連れて、集中治療室の脇の小部屋に入る。小さなローテーブルをはさんでソファが二つ置いてあった。その横の壁にはレントゲン写真を掲げる台があり、煌々と蛍光灯が点いている。テーブルの上には無造作に投げ出されたレポート用紙とボールペン。
「また、あの先生は点けっぱなしにしていくんだから…」
篠崎はあきれたようにつぶやき、蛍光灯を消す。
「どうぞ、座って」
紫音は待合室でよく見るような無愛想な茶色のソファに腰を下ろす。部屋の奥の小さなポットで篠崎はコーヒーを淹れる。
「ここは患者さんのご家族に説明をする部屋なの。今の時間ならたぶん誰も来ないわ。…どうぞ」
紙コップに入れられたコーヒーからは温かな湯気が立つ。紫音はその香りを深く吸い込み、一口啜った。
「ああ、ホッとするわ」
「夕方から休みなしだったものね。お疲れ様」
「あなたにはずいぶん助けられたわ。ありがとう」
「いいえ、そんな。元生徒会長様のお手伝いぐらい、いくらでも」
篠崎は丸顔の頬にえくぼを作り、いたずらっぽく笑った。
「ごめんなさいね。本当は付き添いは禁止でしょう?」
「本当は…ね。でもこの病院のVIPの方だし、今日明日は私が夜勤だから何とかなるわ。日中は面会時間以外はちょっと無理だけど」
「了解。いずれにしても日中はホテルで休ませるわ」
篠崎はコーヒーのカップを両手で包むように持った。
「それにしても、従弟とはいえずいぶん肩入れしているのね。紫音らしくない感じがするわ」
「…そうね。あの二人とは付き合いが長いから」
「あの子、婚約者の方とは違うわよね。確か…女神の時代のモデルさんでしょ」
紫音はため息を一つついた。
「そう。あの二人がもう少し自分の気持ちに正直になっていたら、状況はずいぶん違っていたと思うんだけど」
「昔の恋人なの? 家柄のいい婚約者ができたから彼女が身を引いた、とか?」
「そうなのよ。はたから見ていてイライラしてくるのよ」
篠崎はクスリと笑い、コーヒーを一口飲む。
「それで肩入れしちゃうんだ」
「最期ぐらいは一緒にいさせてあげたいじゃない」
眼鏡の陰で紫音の目が少し揺れたように見えた。
篠崎はテーブルのレポート用紙を揃え、ボールペンとまとめてテーブルの端へ片付ける。
「…ねえ、お部屋の件、美都会長にお伝えしてね。言いにくいことだと思うけど」
「わかったわ」
「こちらももちろん全力を尽くします。でも主治医の先生の話ではかなり厳しいらしいの。通常ならばもう積極的な治療という段階ではないらしいわ」
「…ええ。聞いているわ」
紫音は眼鏡を外し、眉間に指を当てる。
「午前中色々検査するし、それでまた方針が変わるかもしれない。回復の手立てがあったら必ず治療するから」
篠崎はできるだけ明るい口調で言ってみたものの、紫音の表情は厳しいままだった。
「会長は、悠河が亡くなられてからの今後の事業のことで頭が一杯のようだったし、どうご判断されるか…」
「実の息子でしょ」
「普通の親子の絆なんて考えない方がいいわ。婚約者の家から婚約解消、業務提携解消の話が持ち上がって会社は大混乱よ」
「なんだか、お偉い方たちの世界って…難しい」
紫音は疲れたように片頬で笑った。
「本当に。目の前の幸せを考えたなら、もう少し簡単になるでしょうに」