桜華抄
ひらきかけの桜花

結ばれた2つの魂


特別室に移ってからは、毎朝紫音が出勤前に部屋を訪れる。
ナースステーションで昨夜の悠河の状態を確かめ、華の元へ向かう。大抵華は悠河のベッドの脇で手をつないだまま眠っている。朝は回診があるので華を起こし、ホテルで仮眠するよう促し、紫音自身は会社へ向かう。

今のところ華の個人事務所開設の件は、あくまで水面下で可能性を探るという状況であった。
昨日病院を訪れた時、華は響という人物とコンタクトが取れたと笑顔で伝えてきた。華があれだけ信頼しており、長年悠河を影で支えてきた者ならば信用していいのだろう。実際紫音はそう思うしかなかった。

今、社内でうかつに動くと、どんな噂を立てられるかわからない。そしてそれがもしも秀樹の耳に入った場合、自分は指一本でこの美都芸能からはじき出され、華の上演権はあっという間に取り上げられてしまう可能性だってある。
本当に信用できる者にしか協力を仰げないこの状況は、ただでさえ悠河の不在で混乱する業務を片付けなければならない忙しさと相まって、紫音を追い詰めていた。


早く何とか道筋だけでもつけなければ。


紫音は響からの連絡をすがるように待っていた。

「おはよう、華ちゃん」

ベッド脇で眠る華の華奢な肩を揺する。華は一つ身じろぎをして目を開けた。

「あ、紫音さん。おはようございます」

華の頬にも疲労の色が徐々に濃くなる。明らかに痩せてきたようだ。

「もっとしっかり食べて休まないと」

いつものように紫音がそう助言すると、華はやはりいつものように笑顔で「ハイ」とうなずくだけであった。


華は春の暖かな陽光の中、ホテルへ向かった。昨日も風は強かったが、晴れて気温が上がり桜のつぼみが緩み始めていた。


――今日はもっと暖かくなりそう…


華は桜の木を見上げる。この分だとどんどん開花が進むだろう。桜の花が満開になったら、悠河がどこかへ行ってしまいそうで怖かった。


――お願い。まだ咲かないで。


華はまた願いを掛けるように開きかけた淡いピンクのつぼみにそっと触れた。




悠河は時の無い夕暮れの世界に佇み、昨日のことを考えていた。
急ぎすぎるな、と自分に警告を与えた。
いくら思いが通じたとはいえ、華は恋愛に関しては奥手だ。急ぎすぎてはきっとひどく傷つけてしまう。

もっと時間をかけるべきだ。

もちろん、そんな時間のないこともわかっている。

今後ずっと一緒にいられるわけではない。

もうすぐ消えてしまう自分がそんなことをしていいのか。

あきらめろ。

つややかな瞳で自分を見つめる華に心を強く揺り動かされる度、悠河は自分を厳しく律してきた。
ずっと以前から叶うのであればこの胸に華を抱きたいと思っていた。こうして思いが通じてからは、その気持ちは日に日に、一刻一刻強くなってくる。
だが、この世界で彼女を抱くことができるのか。実体は動くことすら出来ない瀕死の自分が彼女を抱けるのか。たとえできたとしても、所詮夢の中での話にすぎない。
この世から自分が去り、時が経てばいつか華は他の男を愛するだろう。そしてその腕に抱かれる。誰にも触れられていないその体を。
ドクリと血が沸き立つ。


――許せるものか。


もしもその時俺に生があるのならば、その男を殺してしまうかもしれない。まだ見もしない男に対する強烈な嫉妬が真澄を襲う。狂ってしまいそうだ。いや、狂ってしまえたらどんなにいいだろう。
昨日は臨界点まで達してしまった。それでも何とか抑えられた。だが、もしまたあのように我を忘れてしまうことになったら…抑えられるだろうか。
彼女の全てを奪って自分の中に閉じ込めてしまいたい欲望と、誰よりも愛する彼女を傷つけたくない理性と。自分の中で激しく葛藤を続ける相反するベクトル。
悠河は心の底の頑丈な扉の奥にその気持ちを封印した。



ホテルのベッドでまどろみながら、華は考えていた。

あの閉じられた世界では、自分が触れていると少しずつ悠河の体やその周りを包む空気に力がともる。
もっとそばで、何にも隔たれずに肌を合わせたら、もしかしたらもっともっと悠河に力を与えることができるかもしれない。
紫音にも指摘されたが、確かに自分の疲労は日に日に溜まってきている。でも自分の体はどうなってもいい。悠河が少しでも長く生きていてくれるのならば、いくらでも自分の力をあげたい。
もしかしたらその行為は逆に悠河を疲れさせるだけになるかもしれない。

一か八かの賭けだ。

でも自分にはそれぐらいのことしか悠河にしてあげられない。
それだけではない。悠河と思いが通じてから徐々に自分の体の奥から落ち着かない感じが湧き上がってくる。
もっと抱きしめて欲しい。もっと近くにいきたい。まるで体の中の熱い塊が溶け出し、悠河もろとも飲み込みそうになる、強烈な欲望。自分にそんな気持ちがあるなんて思ってもいなかった。
今までも初めての人が悠河であったら、そう思ったことは何度もある。ただし今まではそれはあくまで夢のような想像でしかなかった。
けれど、今は違う。目の前にいるこの愛しい人と溶け合いたいと切実に思う。
とはいえ、現実にはどうしていいのかわからない。
昨日だって、キスだけであんなに戸惑ってしまった。自分のこの幼さを果たして悠河は受け入れてくれるのか。
不安が頭をよぎる。
悠長に過ごしている時間などないことは悲しくなるほどわかる。日々少しずつ現実の悠河の体から命が流れ出していくのを傍らで感じていた。


――だから。今しかない。今でなければ。

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