桜華抄

迫り来るタイムリミット


Purururururu……Purururururu……Purururururu……

その時、携帯の呼び出し音が夕暮れの部屋に響く。

どくっ。

心臓が一拍ずれる嫌な感じがした。

携帯を掴む。

目に刺さる「紫音さん」の文字。
こんなこと前にもあった。あの最初の日。

「はい」


――華ちゃん? どこにいるの?
「今まだホテルです」

――病院から連絡があったの。悠河、熱があるそうよ。

「え…熱ってどれくらいなんですか」

――それが、かなり高熱らしくて。


予感が的中してしまった。華はそのまま座り込む。スカートがくしゃりと広がる。


――私は会社を抜けられないから、華ちゃんできるだけ早く行ってくれないかしら。

「はい。今からすぐに」

悠河。

まだ、行かないで。

まだ。

今日はずっとそばにいるから。

今日こそ悠河のところに行くから。

そしたらまたいくらでも私の力をあげるから……



華はホテルを飛び出し、病院へ走った。病院前の桜の枝はたくさんの薄ピンクの花で覆われ、もうつぼみなどほとんど見えない。この暖かさでとうとう咲ききってしまった。

華は息を切らしながら、特別室のドアを開ける。てっきり医師や看護師がたくさん詰めているのかと思ったら、誰もいない。静かに人工呼吸器の音だけが響くいつもの部屋の様子に、華は拍子抜けする。


――つまり、高熱が出てもこのまま…ということなんだ。


そう気づくと怒りがこみあげてきた。

治療を打ち切った秀樹に対する怒り、

秀樹の言う通りに何も治療しない医師への怒り、

こんな時に誰も悠河のそばにいないことへの怒り、

悠河の異変に気づかずにホテルで寝ていた自分への怒り。

椅子を寄せ、悠河の手を握る。熱い。いつものほの温かい手とは比べられないほど熱い。端正な顔を見つめる。頬の辺りが赤みを帯びているのに、目の周りには影が落ちていた。たぶん今朝よりも格段に悪くなっている…。

昨夜どんなに無理をしたんだろう?悠河は。華は熱い手を握りしめ、頬を寄せる。


すぐにあなたの元へ行きます。だから待ってて――




美妃の協力の申し出は、紫音を大きく後押しした。
常陸宮がバックについてくれれば、例え秀樹が妨害工作を仕掛けようとしても大きな障壁となる。それ以前に、常陸宮との力の差が歴然としている現状では、美都側から仕掛けることすらできないのではないだろうか。慎重を期すべきことに変わりはないが、遥かな前進だ。後は、あの響氏からの連絡を待とう。

悠河の病院へ向かう前に、紫音は一度自宅マンションへ寄った。悠河が熱発したとなると今夜は病院に詰めることになるかもしれない。郵便物だけでもチェックしておきたかった。

ダイヤル式の鍵を開け、ポストを覗く。一通の不在連絡票を手に取る。差出人は松本何某。名前に心当たりは無い。訝しげに見て、はっと気づく。もしかしたら。

病院へ行く途中で急いで郵便局へ寄り、その大きくてしっかりとした茶封筒を手に取った。
春特有の薄白い闇夜が広がっていたが、幸い街路灯で十分明るい。水城はそのまま車の中で封を開ける。

月下美人の共同管理者の委任状、
悠河から華への資産譲渡書類、

細かい事項にまで触れられた悠河の遺言状、

華の個人事務所代表者として自分の名前が書いてある種々の書類、等々…。

悠河の署名を一番良く知る自分が見ても、偽造とはわからない巧妙なサインと印鑑。

そして携帯電話の番号が書かれた一枚のメモ用紙。

紫音は大きくため息をついた。これで、事務所設立が現実のものとなる。
封筒の底に華名義の大手都市銀行の通帳と印鑑が入っていた。
手に取り、ぱらりと開く。
普通預金口座に並ぶ数字。街路灯にかざして見る。

853721849

紫音は眼鏡を押し上げ、もう一度確かめる。
一、十、百、千、万…。8億5千万。
通帳はぱさりと膝の上に置かれた。


悠河。これなら、十分やっていけるわ――
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