桜華抄
華はもどかしく目を開けた。見渡す限り暗闇が広がる。

いつもの社長室のドアを必死で探すが、どんなに見回しても目を凝らしても見えない。背中に冷たい汗が流れる。もしかして悠河はもういない? 押し寄せる恐怖感に胸が押しつぶされる。

「悠河! 悠河! お願い! どこにいるの?」

耳を澄ます。微かに自分を呼ぶ声が聞こえた。華はその方向へ駆け出す。暗闇の中では一体進んでいるのか後退しているのかそれすらもわからない。
次第にはっきりとしてくる淡い光へ向かって、華は必死に走った。
「…華」

横たわるその人の元へ華はどさりと座り込んだ。肩で大きく呼吸する。膝ががくがく震え、涙が頬を伝った。

「悠河っ…」

自分の方へ伸ばした悠河の手を華は掴む。が、すり抜けた。もう一度掴もうとする。だが透き通るその手を掴むことはできない。ごく僅かに触れるような感覚はあるが、触れられない。華の頬を涙が後から後からこぼれ落ちる。

「すまない。華」

「悠河! もう! 無理しすぎ!」

華は悠河に触れることのできない自分の両手を強く握りしめ、そして顔を覆い泣き崩れた。

「華」

悠河はゆっくりと起き上がり、華の肩に手を置く。淡い光がその手を包み、すーっと悠河の体全体に広がり染み込んだ。華の肩に徐々にふんわりと重みがかかる。華は顔を上げ、悠河を見つめた。

「触れているのがわかるようになってきたよ」

悠河は先ほどよりしっかりとした像を結び、華に笑顔を向けた。華は泣き笑いを浮かべる。

「よかった。もう会えないかと思った」

「君の力のおかげだ。ありがとう」

「…昨日は来れなくてごめんなさい」

昨夜気づいたら悠河の手を離しソファで眠っていたことを話す。悠河はほっとした表情で華を抱きしめる。

「君に何かあったのかと心配した」

果たしてこれは強く抱かれているのだろうか。華は皮膚の神経を鋭敏に尖らせ、悠河の腕を懸命に感じようとした。

「ごめんなさい…。あ…今朝、美妃さんが病院に来た。私の事務所に協力してくれるって…」

「そうか」

悠河は安堵のため息をつく。夢の中では了承してくれたが果たして現実ではどうだろうか、と危惧していた。

「紫音さんも私もびっくりした。だってまさか美妃さんが…」

「常陸宮がバックアップしてくれるなら安心だな」

「もう…。一人で美妃さんのとこに行くなんて、悠河無理しすぎ」
華はぷうっと頬を膨らます。少女の頃から何度も自分に向けてきたこの怒った顔。もうすぐ見ることができなくなるのか。悠河は切なく見つめる。

「ダメじゃない。こんなに疲れて真っ暗になっちゃって。現実の悠河も高い熱が出ているのよ」

「華。この前君を抱いた時、すごい力をもらった。ありがとう。それで色々片付けることができた」
あの夜を思い出し、華は耳まで真っ赤にしながら俯く。

「悠河が良くなるためにあの力使って欲しかったのに…」

「こっちの俺には熱はなさそうだがな。むしろ君のほうが熱っぽいぞ」

「もう…!」

からかうように悠河は笑う。

この笑顔も好き。

悠河をもっと見ていたい。

この時間が永遠に続けばいいのに。

また私の力を全部悠河にあげたら、少しは時間が延びてくれるだろうか。 

「ねえ、悠河」

華は赤い頬をそのままに、真っ直ぐ悠河を見上げた。

「なんだ」

「もう一度、私を抱いて」

「な…」

「だって、そうしたら、また悠河良くなるかもしれないでしょ」

頬を染め、涙で潤んだ大きな瞳で自分を見つめる華。その背に回した腕に無意識に力が入る。と、悠河の腕は華の体の輪郭を越えて沈み込んだ。注意深く触れていなければ、透き通ってしまう自分の体。
悠河は華に回した腕を解き、華の顔を正面から見据える。

「無理だ」

「そんな。だってやってみなきゃわからないでしょ。私、このままあきらめるなんてイヤ」

「俺だってあきらめたくない。けれど、ほら」

悠河は華の手を取り、強く握る。華の手を通り越し拳を握る形になる。力を入れるとすり抜けてしまう。その事実に華は大きな目をさらに大きく見開く。

「こんなんで君を抱けるわけがない」

「イヤ。お願い。悠河。私にできることがあるなら何でもするから、あきらめないで、お願い」

「華」

もう一度華を抱きしめる。ほんのりとした温かさが華を包む。

「こうして一緒にいてくれるだけでいい」

「何でそんな悟ったような顔するの!!」


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