桜華抄

――悟ってなどいない。あきらめられるわけがない。やっと華を手に入れたと思ったのに、あと僅かしか時間がないなどと言われて信じられるものか。お前の命はあと一週間だと言われて納得できる人間などいるか。
しかし、自分には分かる。もう本当に残り時間が少ないことが。
もはや自分の体は不可逆なところまで来てしまった。もしかしたら前回華を抱いた時にはまだ戻れたかもしれない。が、もう無理だ。
死を受容するにはまだやりたいこともやるべきことも山のように残っている。

何故自分が、

何故あの時、

何故あの場所にいてしまったのか。

何故あの車に遭遇してしまったのか。

もう少し時間が違えば、違う道を通っていれば。

悔いや怒りは絶えることなく湧いてくる。
が、嘆いていたところで時間は過ぎてゆく。もう時間は無いのだ。
華といるこの大切な時間が。

こんな時にも冷静さを失わない自分に苦笑する。

華の言う通り、たとえ無理だとしてもこの腕に華を抱き、肌を合わせ、少しでも回復の可能性を試すべきなのだろうか。
それよりも華の記憶の中に自分を刻み付けるように過ごしたい。
すでに死を揺るがしがたい事実として実感できる自分には理解できても、華に理解しろと言うのは酷なことだろうか。




――悠河は困ったように、何か考えるようにじっと私の顔をみつめている。また困らせてしまった。でも、私はどんなことがあってもあきらめたくない。
お父さんもお母さん紗由理もそして加賀乃先生も突然消えてしまった。大切な人はいつも私の気づかない内に私に別れを告げ、去ってゆく。私の心に埋められない大きな穴を開けて。

悠河も行こうとしている。それがわかる。きっと私の訴えは空回りしてる。それでも言わずにはいられない。あきらめたくない。
昨夜私がここに来ていれば。事故にあった直後からもっともっと悠河に力を上げていれば。考えても仕方のないことと分かっていても、後悔が湧き上がるのを止められない。
僅かな希望があるならば、それにすがりたい。このまま悠河を失いたくない。

もう私から大切な人を奪わないで。

お願い。

悠河を連れて行かないで。


「華、俺にはもう時間が無い」

「それはわかってるけど、だから、何とかしようって…」

「俺はこの残された時間を君とゆっくり過ごしたい」

「悠河、あきらめてる! 私わからない。何で一人で納得して去って行こうとするの?」

「君の中に俺を残しておいてくれ」

「だから、何であきらめちゃうの? 私を置いてきぼりにして行かないで! 私、絶対に分かったふりなんてしない。あきらめられない。何であなたが死ななきゃならないの? 何で、あなたなの? 何で? どうして…」

「…華。納得してくれなくていいから、一緒にいてくれないか。君に見せたいものがある」

悠河が静かに上を指差す。華は見上げる。暗闇の中にあの梅の谷で見たよりも圧倒されるような星空が広がる。

「うわあ……。なんか…すごい星空。…宇宙の中で見ているみたい」

「ああ。これは大気圏外に置かれた望遠鏡の像だからな」

「え? それってどういうこと…?」

「実際にそういう望遠鏡があるんだ。地表からでは見えない弱い光でも観測できる」

目の前に光の帯が広がる。霞むように流れるように。明滅を繰り返すたくさんの小さな星々がまるで砂浜のように永遠に延びてゆく。
「きれい…。もしかして、これ、天の川?」

「そうだ」

光の粒が刻々と濃淡を変え、さざ波を起こす。その細かな点は時に重なり時に散り、暗闇の中に広がっていく。輝く白い河を見上げ二人は佇む。

「天の川とはそもそも何だか知ってるか?」

「え……。えと…わからない…」
「地球が属している天の川銀河を見ているんだ。本来の形は渦を巻いた形なんだが、地球もその渦の中にいるから全体は見えない。ちなみに、こういう銀河はこの宇宙に500億以上あると言われている」

楽しげに悠河は言う。

「なんだか、プラネタリウムで解説してもらっているみたい」

「そうだ。俺特製のプラネタリウムだからな」

「悠河特製のプラネタで悠河の解説が聞けるなんて、贅沢」

涙の跡を残した華の頬が緩む。

「やっと笑ったな」

先ほどまで昂ぶっていた気持ちが和らいでいるのを華は感じた。

残り少ない時間をあんな風に取り乱して過ごすよりは、確かにこちらの方がいいのかもしれない。…でもまだ納得したわけではないけれど。

天の川の流れのそばに楕円形や円盤形の渦巻きがいくつもいくつも見える。

「大マゼラン雲だ。こっちに見えるのはアンドロメダ銀河。二つともすぐ近くにある別の銀河だ」

「こんな渦巻きみたいな中に私もいるの?」

「そうだ。この渦巻きの中でたくさんの星が生まれたり消えたりしている」

消える…そんな言葉聞きたくないのに。華の胸がちくりと痛む。

「これなんか、綺麗だろう」

突然目の前に広がる明るい光。淡いピンクの混ざる薄紫色の光がふんわりとした花びらを幾重にも形作る。その周りを取り巻く白い光は徐々に光度を落とし闇に溶けていく。まるで漆黒の宇宙の闇から浮かび上がる大輪の薔薇。

「すごい…綺麗。これも星なの…?」

「惑星状星雲というものだ。死に行く星の最後の輝きとも言われている」

こんなに美しい星の花を自分に見せながら、そんなこと言うなんて…。

「これは太陽ぐらいの星の最期の姿だ。外層の物質が宇宙空間へ放出され、中央の瀕死の星からの強烈な紫外線を浴びて輝き出す。花びらのように見えるのがその部分だ」

死を直前にしたまぶしいまで命の輝き。華はその花を心に焼き付けるように見つめる。

「華」

「…はい」

「受け取ってくれるか。これが君に贈る最後の花だ」


――そんなこと言わないで!! 
華の叫びは声にならなかった。涙と一緒にこみ上げる嗚咽を華は両手で押さえる。

「星の一生も人の一生も同じだ。生まれ、与えられた寿命を生き、死んでいく。大きな星は超新星爆発というものを起こし華々しく散っていくが、それで終わりではない。その散ったチリやガスからまた新たな星が生まれる。生と死が繰り返され永遠に続いていくんだ」

「……」

「俺の存在はもうすぐ消える。だが、俺は華や今まで関わった人の中に記憶として残り、何かを生み出すきっかけになれるかもしれない」

「……」

「俺はこれからも君の中にいる。そして君の月下美人や今後君が出会う芝居の中で生きる」

悠河は華を後ろから抱きしめる。ふわりと悠河の匂いに包まれる。このまま。ずっとこのままでいたいのに。

「君が生きている限り、俺は君の中で生き続ける。そう思ってはくれないか」

「……」

「それに、また会えるだろう。きっと」

「…どこで?」

「俺が君の魂のかたわれなら、きっとまたどこかで」

その時。

ぷつり、と消えた。

全てが。


「悠河! 悠河! どこにいるの? 悠河!!」




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