桜華抄
永遠の別れ
消えかけの灯火
深夜紫音は病院へ着いた。エントランスの桜はすっかり花開き、時折吹く夜風にちらちらと花びらが舞う。
夜間出入り口近くの待合コーナーには、救急に来たと思われるパジャマ姿の子どもが母親に抱かれてぐっすりと眠っていた。
照明を落とした廊下にヒールの音がカツンカツンと残響を伴って響くのが居心地悪い。紫音はできるだけ靴音を立てないように神経を使いながら歩く。
病室に行く前にナースステーションで悠河の現在の状況を確認する。
夕方からの熱はどんどん上がり、すでに体温調節機能がおかしくなっていることを物語っていた。今まで徐々に落ちてきていた心臓や腎臓の機能も、熱に併せ一気に下り坂を駆け下りるように悪化の一途をたどっている。
「もう、だめなのですね」
紫音が訊ねると看護師は
「今日いっぱいもつかどうか」
と目を伏せた。
紫音はすぐさま美都家へ電話を入れた。悠河の危篤の報は秀樹へ伝えられた。が、秀樹が発した言葉は
「そのまま君が看取ってくれればいい。わしは行かん」
というそっけないものであった。あまりのことにさすがに紫音も抵抗し、説得を試みたが秀樹は頑として自分は病院へ行くつもりはない、と突っぱねた。
「わしなどが行くよりは、あの娘がそばにいた方が悠河も喜ぶだろう」
「それは…」
「あいつは最後にわしに挑戦状を叩きつけおった。そんな者を看取る気はない。君に一任する。死んだら連絡をくれ」
「そんな…」
「ああ、心配するな。社葬は一大イベントだ。盛大にやってやる」
「叔父様それはあんまりですわ!」
が、紫音の叫びはツーッツーッツーッという音と共に切り捨てられ、秀樹へ伝わることはなかった。
紫音は公衆電話の受話器を下ろし、しんと誰もいない待合室に一人たたずむ。時折どこからか咳き込む音が聞こえる以外は、病室の並ぶ廊下は闇に沈んでいた。
――華ちゃんにはいいのかもしれない。誰にも気兼ねなくゆっくりと最期まで悠河と過ごすことができる。
紫音は無理やり前向きにそう考え、やるせない気持ちを押しやった。
「紫音」
エレベーターホールから白衣姿の篠崎が現れた。
「深夜勤務なの?」
「いえ。仕事は終わってたんだけど、色々片付けてたらこんな時間になっちゃって。そしたら同僚が美都様の状態が悪いって教えてくれたのよ」
「そう。見に来てくれたのね」
「あなたと華さんが心配で」
「ありがとう」
友の気遣いを温かく感じ、秀樹の電話で重く沈んだ紫音の心は少し浮上した。きっとそれが表情に表れたのだろう。篠崎も柔和な目でにこりと微笑んだ。
「華さんは?」
「たぶん病室にいるわ。私も着いたばかりで、これから行くところ」
「そう…。ご一緒してもいいかしら」
「ええ。その方が私も心強いわ」
病室のドアを開けた。蛍光灯を落とした薄暗い部屋にベッドサイドの灯りがカーテンから洩れる。華はいつものように悠河の手を握り、ベッドに頭をもたれかけていた。
それまで穏やかに眠っていた華の顔が歪む。苦しそうに眉根を寄せ、呼吸が早くなる。
「華ちゃん」
紫音が肩に手を置き声をかける。
「華ちゃん、大丈夫?」
華が目を開けた。気づくと紫音と篠崎が心配そうに華の顔を覗き込んでいた。ゆっくりと頭を起こす。その拍子に目のふちに溜まっていた涙がぽろりと落ちた。華は悠河の手を離し、あわてて涙を拭う。
「あ、紫音さん、篠崎さんも…。いらしてたんですか」
「ええ。つい今来たばかりだけど。華ちゃんがあんまり苦しそうな顔をしてるから心配になったわ」
「あ…」
時計を見る。午前1時。まだ朝までずいぶん時間があるのに夢から覚めてしまった。
というよりも夢が途絶えてしまった。
まるでエネルギーが切れたように、あの星空が一瞬で消えた。
ベッドに横たわる悠河を見る。寝入る前と同じように熱で少し頬が赤いが、それ以外には変わった様子はないようだ。華はひとまずほっとため息をついた。
「悠河の夢が突然消えてしまったんです。電池が切れてしまったみたいに」
「…そう」
それはたぶんもうすぐ来てしまう、避けられない別れの予兆――
紫音も篠崎も、そして華も気づいてはいたが、誰も何も言わなかった。
しばらく篠崎は紫音と話していたが、明日も勤務があるということで帰っていった。見送りがてらエレベーターホールまで紫音は行き、そのまま待合室でコーヒーを飲む。
紫音はもう一軒電話をかけるかどうか考えていた。悠河の影の腹心の部下。きっと病室へは来ないと思うが、悠河の危篤だけは報せたほうがいいのではないか…。
紫音は紙コップを捨て、電話へと向かった。
呼び出し音が続く。やはり公衆電話からでは出ないのだろうか。あきらめて切ろうとした時に、「はい」と穏やかな男性の声が聞こえた。
「わたくし、美都総合商社社長秘書の美都紫音と申します。郵送頂いた物を本日受け取りました。ありがとうございます」
それだけ一気に言うと、しばしの間が空いた。
「いえ、私は悠河様のご指示に従ったまでです。…ところで、このような時間にお電話とは、何かあったのでしょうか」
さすが、速い。紫音は率直に告げた。
「ええ。悠河が危篤です」
電話の向こうで沈黙が下りる。
「そうですか…」
「出すぎたことかもしれませんが、もしよろしければ病院へ来ていただければと思いまして」
「ご家族がいらっしゃるところへ、私のような者が行くわけには…」
「いえ。華ちゃんとわたくししかおりません」
躊躇いが電話線を伝わってくる。
「会長は」
「いらっしゃいませんわ。親族の方も。わたくしに一任されました」
「会長も悠河様も、結局和解できなかったんですね」
「ええ」
「まったく…お二人とも、頑固で不器用すぎる」
少し苦笑を含んだ声が聞こえた。その声はそのまま続く。
「…私は表舞台には立てない人間です。影から見送らせていただきますので、ご心配なく」
「わかりました」
きっと響はこう言うだろうと思っていた紫音は、深追いせずに引き下がる。
「今後も華様やあなた様に協力するよう言われております。何かありましたら、またご連絡下さい」
「ご丁寧にありがとうございます」
紫音がそう言うと、電話は切れた。
先ほどの秀樹への電話とは違い、紫音の胸に安堵感が広がった。
やはり悠河がいなくなることは自分にもかなりのダメージが来ているのだ。支えてくれるという人がいるのがこんなにも心強いということを感じ、紫音はほっとため息をついた。
「華ちゃんは悠河のそばにいてちょうだい。私はこちらで休ませてもらうわ」
部屋に戻ってきた紫音はカーテンを引き、ソファの方へと出て行った。
華は悠河の手を両手で握る。ベッドサイドの灯りは悠河の頬の暗い影をより際立たせる。発熱による手の熱さは変わらないのに頬の赤みが徐々に薄れてきているように見えた。まるで熱とともに悠河の体から命が次々と蒸発しては消えていくようで、その止めようの無い変化に華の心は引き絞られるような痛みを感じる。
悠河の額にかかる柔らかく乱れた髪を指で整え、華は影の落ちた頬に口付けた。
――会えるのだろうか。まだ悠河のあの世界はちゃんと存在するのだろうか。
悠河の顔を網膜に焼きつけ、華は目を閉じた。
それから何度も華はうとうとしたが、眠りが浅すぎてすぐに目が覚めてしまった。刻々と時間は過ぎてゆくのに一向に深い眠りは訪れてくれない。焦りが余計に眠りを妨げる。こんなに眠りたいのに、眠れない。悪いことばかりが頭を巡り目が冴える。
華は悠河の手を抱きしめるようにして祈るしかなかった。
――お願い、まだ悠河を連れて行かないで下さい。お願い。
夜間出入り口近くの待合コーナーには、救急に来たと思われるパジャマ姿の子どもが母親に抱かれてぐっすりと眠っていた。
照明を落とした廊下にヒールの音がカツンカツンと残響を伴って響くのが居心地悪い。紫音はできるだけ靴音を立てないように神経を使いながら歩く。
病室に行く前にナースステーションで悠河の現在の状況を確認する。
夕方からの熱はどんどん上がり、すでに体温調節機能がおかしくなっていることを物語っていた。今まで徐々に落ちてきていた心臓や腎臓の機能も、熱に併せ一気に下り坂を駆け下りるように悪化の一途をたどっている。
「もう、だめなのですね」
紫音が訊ねると看護師は
「今日いっぱいもつかどうか」
と目を伏せた。
紫音はすぐさま美都家へ電話を入れた。悠河の危篤の報は秀樹へ伝えられた。が、秀樹が発した言葉は
「そのまま君が看取ってくれればいい。わしは行かん」
というそっけないものであった。あまりのことにさすがに紫音も抵抗し、説得を試みたが秀樹は頑として自分は病院へ行くつもりはない、と突っぱねた。
「わしなどが行くよりは、あの娘がそばにいた方が悠河も喜ぶだろう」
「それは…」
「あいつは最後にわしに挑戦状を叩きつけおった。そんな者を看取る気はない。君に一任する。死んだら連絡をくれ」
「そんな…」
「ああ、心配するな。社葬は一大イベントだ。盛大にやってやる」
「叔父様それはあんまりですわ!」
が、紫音の叫びはツーッツーッツーッという音と共に切り捨てられ、秀樹へ伝わることはなかった。
紫音は公衆電話の受話器を下ろし、しんと誰もいない待合室に一人たたずむ。時折どこからか咳き込む音が聞こえる以外は、病室の並ぶ廊下は闇に沈んでいた。
――華ちゃんにはいいのかもしれない。誰にも気兼ねなくゆっくりと最期まで悠河と過ごすことができる。
紫音は無理やり前向きにそう考え、やるせない気持ちを押しやった。
「紫音」
エレベーターホールから白衣姿の篠崎が現れた。
「深夜勤務なの?」
「いえ。仕事は終わってたんだけど、色々片付けてたらこんな時間になっちゃって。そしたら同僚が美都様の状態が悪いって教えてくれたのよ」
「そう。見に来てくれたのね」
「あなたと華さんが心配で」
「ありがとう」
友の気遣いを温かく感じ、秀樹の電話で重く沈んだ紫音の心は少し浮上した。きっとそれが表情に表れたのだろう。篠崎も柔和な目でにこりと微笑んだ。
「華さんは?」
「たぶん病室にいるわ。私も着いたばかりで、これから行くところ」
「そう…。ご一緒してもいいかしら」
「ええ。その方が私も心強いわ」
病室のドアを開けた。蛍光灯を落とした薄暗い部屋にベッドサイドの灯りがカーテンから洩れる。華はいつものように悠河の手を握り、ベッドに頭をもたれかけていた。
それまで穏やかに眠っていた華の顔が歪む。苦しそうに眉根を寄せ、呼吸が早くなる。
「華ちゃん」
紫音が肩に手を置き声をかける。
「華ちゃん、大丈夫?」
華が目を開けた。気づくと紫音と篠崎が心配そうに華の顔を覗き込んでいた。ゆっくりと頭を起こす。その拍子に目のふちに溜まっていた涙がぽろりと落ちた。華は悠河の手を離し、あわてて涙を拭う。
「あ、紫音さん、篠崎さんも…。いらしてたんですか」
「ええ。つい今来たばかりだけど。華ちゃんがあんまり苦しそうな顔をしてるから心配になったわ」
「あ…」
時計を見る。午前1時。まだ朝までずいぶん時間があるのに夢から覚めてしまった。
というよりも夢が途絶えてしまった。
まるでエネルギーが切れたように、あの星空が一瞬で消えた。
ベッドに横たわる悠河を見る。寝入る前と同じように熱で少し頬が赤いが、それ以外には変わった様子はないようだ。華はひとまずほっとため息をついた。
「悠河の夢が突然消えてしまったんです。電池が切れてしまったみたいに」
「…そう」
それはたぶんもうすぐ来てしまう、避けられない別れの予兆――
紫音も篠崎も、そして華も気づいてはいたが、誰も何も言わなかった。
しばらく篠崎は紫音と話していたが、明日も勤務があるということで帰っていった。見送りがてらエレベーターホールまで紫音は行き、そのまま待合室でコーヒーを飲む。
紫音はもう一軒電話をかけるかどうか考えていた。悠河の影の腹心の部下。きっと病室へは来ないと思うが、悠河の危篤だけは報せたほうがいいのではないか…。
紫音は紙コップを捨て、電話へと向かった。
呼び出し音が続く。やはり公衆電話からでは出ないのだろうか。あきらめて切ろうとした時に、「はい」と穏やかな男性の声が聞こえた。
「わたくし、美都総合商社社長秘書の美都紫音と申します。郵送頂いた物を本日受け取りました。ありがとうございます」
それだけ一気に言うと、しばしの間が空いた。
「いえ、私は悠河様のご指示に従ったまでです。…ところで、このような時間にお電話とは、何かあったのでしょうか」
さすが、速い。紫音は率直に告げた。
「ええ。悠河が危篤です」
電話の向こうで沈黙が下りる。
「そうですか…」
「出すぎたことかもしれませんが、もしよろしければ病院へ来ていただければと思いまして」
「ご家族がいらっしゃるところへ、私のような者が行くわけには…」
「いえ。華ちゃんとわたくししかおりません」
躊躇いが電話線を伝わってくる。
「会長は」
「いらっしゃいませんわ。親族の方も。わたくしに一任されました」
「会長も悠河様も、結局和解できなかったんですね」
「ええ」
「まったく…お二人とも、頑固で不器用すぎる」
少し苦笑を含んだ声が聞こえた。その声はそのまま続く。
「…私は表舞台には立てない人間です。影から見送らせていただきますので、ご心配なく」
「わかりました」
きっと響はこう言うだろうと思っていた紫音は、深追いせずに引き下がる。
「今後も華様やあなた様に協力するよう言われております。何かありましたら、またご連絡下さい」
「ご丁寧にありがとうございます」
紫音がそう言うと、電話は切れた。
先ほどの秀樹への電話とは違い、紫音の胸に安堵感が広がった。
やはり悠河がいなくなることは自分にもかなりのダメージが来ているのだ。支えてくれるという人がいるのがこんなにも心強いということを感じ、紫音はほっとため息をついた。
「華ちゃんは悠河のそばにいてちょうだい。私はこちらで休ませてもらうわ」
部屋に戻ってきた紫音はカーテンを引き、ソファの方へと出て行った。
華は悠河の手を両手で握る。ベッドサイドの灯りは悠河の頬の暗い影をより際立たせる。発熱による手の熱さは変わらないのに頬の赤みが徐々に薄れてきているように見えた。まるで熱とともに悠河の体から命が次々と蒸発しては消えていくようで、その止めようの無い変化に華の心は引き絞られるような痛みを感じる。
悠河の額にかかる柔らかく乱れた髪を指で整え、華は影の落ちた頬に口付けた。
――会えるのだろうか。まだ悠河のあの世界はちゃんと存在するのだろうか。
悠河の顔を網膜に焼きつけ、華は目を閉じた。
それから何度も華はうとうとしたが、眠りが浅すぎてすぐに目が覚めてしまった。刻々と時間は過ぎてゆくのに一向に深い眠りは訪れてくれない。焦りが余計に眠りを妨げる。こんなに眠りたいのに、眠れない。悪いことばかりが頭を巡り目が冴える。
華は悠河の手を抱きしめるようにして祈るしかなかった。
――お願い、まだ悠河を連れて行かないで下さい。お願い。