桜華抄
目の前に白い空間が広がる。ぽつりと向こうに桜の大木が見える。まるで滝のように枝の先をしだれさせ、淡いピンクの花が枝々にあふれんばかりに咲き誇る。
いつもの暗闇ではない。それだけで華の心に不安が広がる。
――悠河は? 悠河はどこ?
辺りを見回してもそれらしい姿は見えない。焦る。手も膝もひどく震えて立っているのがやっとだった。声も出ない。
「ゆ…悠河……?」
掠れる声でやっとつぶやく。耳を澄ます。
「華…?」
聞こえた。一番大好きなあの低い柔らかな声が。桜の下に淡く人影が浮かぶのが見える。もつれる足で華は桜の木へ向かった。
満開の桜の木の下に悠河が穏やかな笑顔で立っていた。時折はらはらと花びらが悠河へと舞い降りる。
「悠河…!」
悠河の輪郭はかすかな影を残して不規則な明滅を繰り返していた。どんな姿でもいい、悠河を見ていたい。華はじっと目を凝らした。
悠河は桜を見上げる。光に溶けてしまいそうな輪郭。
「桜、満開だな」
「…うん」
「あの時はまだつぼみばかりだったのに」
「…うん」
「華」
「…うん」
「もう、時間が来てしまったようだ」
さらりと悠河は言った。華にもわかっていたことだった。でも息が詰まり、鼓動が早くなる。かろうじて掠れた声で応える。
「…うん」
「きっと、また会える」
いつもの自信に満ちた悠河の目。有無を言わさず華にもそう思わせる、いつものあのまなざしで悠河は華を見つめる。
「…うん」
桜の花びらがちらちらと悠河の体を通って落ちていく。
「これからも君を見守り続ける。へたな芝居をしたらいなくなるからな」
「うん。…わかってる」
華の口元が僅かにほころぶ。ゆっくりと悠河の顔が近づく。華は目を閉じた。ごくごく微かに触れる悠河の唇。その感触を華は永遠に覚える。
そっと離れていく感じに華は目を開く。悠河は哀しそうな切ないような表情を浮かべ華を見つめていた。きっと自分も同じ顔をしているんだろう。
二人の間を絶え間なく花びらが舞い降りる。
「今度会えたらちゃんと言うからな。生きているうちに」
「…え?」
「愛しているって」
華の目に涙が溢れた。ぼやけて悠河が見えにくい。あわててまばたきを繰り返す。
「私もちゃんと言うから。悠河、愛してます」
「ありがとう」
悠河がふわりと笑みを浮かべた。
――この笑顔をもう二度と見ることができない
突然華の胸に恐怖が込み上げてくる。悠河が去るという事実が大きな壁のように迫ってきた。
今度は本当にいなくなる。本当に行ってしまう。もう止められない。
――怖い、怖い、怖い。イヤだ、イヤだ、イヤだ。ずっと傍にいて。行かないで。
悠河に必死にしがみつこうとしても、もう華の手は空を切るばかりだった。桜の花びらだけが華の腕に触れては落ちてゆく。それでも必死に悠河を掴もうとする華の手を、悠河の透き通る手が包む。
「華。すまない。もう時間だ」
華の頬に涙がぽろぽろぽろぽろこぼれ落ちる。
「じゃあ、私も一緒に連れてって!」
「そんなことできるわけがないだろう!」
さらに悠河の輪郭はどんどん淡くなる。悠河は華の肩に手を置き、華を見つめた。
「華。俺は君の中で生き続ける」
悠河がそう言った瞬間、どこからかふうっと春風が吹いた。一斉に花びらが舞い散る。華の視界が薄ピンクに染まった。
「悠河! 行っちゃイヤ! ヤダ! 私を残して行かないで!!」
華は華の肩に置いた手をふわりと離し、まっすぐ正面に立った。
スーツの似合うすらりとした立ち姿。
やわらかな髪、
濃いまつげが影を落とす端正な顔、
広い肩幅、
受け止めてくれる大きな胸、
抱きしめる腕、
長い足。
もう本当にかすかにしか見えない悠河の体。華の胸はぎりぎりと痛む。
悠河ははらはら落ちてくる桜の花を見上げ、それからやわらかな笑顔を華に向けた。
「行かないで!! 悠河! 悠河!」
悠河は揃えた長い指先をゆっくりと肩先に上げる。
「じゃあな、おチビさん。きっとまた会おう」
悠河は笑顔を消し、唇を引き結んだ。華をじっと見つめる。そして心を決めたように一つ深い息を吐くと、桜の木の向こうへとゆったりとした足取りで歩き始めた。
華は追いかけたくても、体がこわばって動けない。涙だけがぽろぽろと頬を伝う。
――行ってしまう。行ってしまう。悠河! 悠河!!
華は悠河の背中を必死で目で追う。かすんでよく見えない。お願い、花びら、そんなにたくさん降らないで。華は懸命に目を凝らす。
その時。悠河の姿が消えた。まるで、フッと風に溶けるかのように。
いつもの暗闇ではない。それだけで華の心に不安が広がる。
――悠河は? 悠河はどこ?
辺りを見回してもそれらしい姿は見えない。焦る。手も膝もひどく震えて立っているのがやっとだった。声も出ない。
「ゆ…悠河……?」
掠れる声でやっとつぶやく。耳を澄ます。
「華…?」
聞こえた。一番大好きなあの低い柔らかな声が。桜の下に淡く人影が浮かぶのが見える。もつれる足で華は桜の木へ向かった。
満開の桜の木の下に悠河が穏やかな笑顔で立っていた。時折はらはらと花びらが悠河へと舞い降りる。
「悠河…!」
悠河の輪郭はかすかな影を残して不規則な明滅を繰り返していた。どんな姿でもいい、悠河を見ていたい。華はじっと目を凝らした。
悠河は桜を見上げる。光に溶けてしまいそうな輪郭。
「桜、満開だな」
「…うん」
「あの時はまだつぼみばかりだったのに」
「…うん」
「華」
「…うん」
「もう、時間が来てしまったようだ」
さらりと悠河は言った。華にもわかっていたことだった。でも息が詰まり、鼓動が早くなる。かろうじて掠れた声で応える。
「…うん」
「きっと、また会える」
いつもの自信に満ちた悠河の目。有無を言わさず華にもそう思わせる、いつものあのまなざしで悠河は華を見つめる。
「…うん」
桜の花びらがちらちらと悠河の体を通って落ちていく。
「これからも君を見守り続ける。へたな芝居をしたらいなくなるからな」
「うん。…わかってる」
華の口元が僅かにほころぶ。ゆっくりと悠河の顔が近づく。華は目を閉じた。ごくごく微かに触れる悠河の唇。その感触を華は永遠に覚える。
そっと離れていく感じに華は目を開く。悠河は哀しそうな切ないような表情を浮かべ華を見つめていた。きっと自分も同じ顔をしているんだろう。
二人の間を絶え間なく花びらが舞い降りる。
「今度会えたらちゃんと言うからな。生きているうちに」
「…え?」
「愛しているって」
華の目に涙が溢れた。ぼやけて悠河が見えにくい。あわててまばたきを繰り返す。
「私もちゃんと言うから。悠河、愛してます」
「ありがとう」
悠河がふわりと笑みを浮かべた。
――この笑顔をもう二度と見ることができない
突然華の胸に恐怖が込み上げてくる。悠河が去るという事実が大きな壁のように迫ってきた。
今度は本当にいなくなる。本当に行ってしまう。もう止められない。
――怖い、怖い、怖い。イヤだ、イヤだ、イヤだ。ずっと傍にいて。行かないで。
悠河に必死にしがみつこうとしても、もう華の手は空を切るばかりだった。桜の花びらだけが華の腕に触れては落ちてゆく。それでも必死に悠河を掴もうとする華の手を、悠河の透き通る手が包む。
「華。すまない。もう時間だ」
華の頬に涙がぽろぽろぽろぽろこぼれ落ちる。
「じゃあ、私も一緒に連れてって!」
「そんなことできるわけがないだろう!」
さらに悠河の輪郭はどんどん淡くなる。悠河は華の肩に手を置き、華を見つめた。
「華。俺は君の中で生き続ける」
悠河がそう言った瞬間、どこからかふうっと春風が吹いた。一斉に花びらが舞い散る。華の視界が薄ピンクに染まった。
「悠河! 行っちゃイヤ! ヤダ! 私を残して行かないで!!」
華は華の肩に置いた手をふわりと離し、まっすぐ正面に立った。
スーツの似合うすらりとした立ち姿。
やわらかな髪、
濃いまつげが影を落とす端正な顔、
広い肩幅、
受け止めてくれる大きな胸、
抱きしめる腕、
長い足。
もう本当にかすかにしか見えない悠河の体。華の胸はぎりぎりと痛む。
悠河ははらはら落ちてくる桜の花を見上げ、それからやわらかな笑顔を華に向けた。
「行かないで!! 悠河! 悠河!」
悠河は揃えた長い指先をゆっくりと肩先に上げる。
「じゃあな、おチビさん。きっとまた会おう」
悠河は笑顔を消し、唇を引き結んだ。華をじっと見つめる。そして心を決めたように一つ深い息を吐くと、桜の木の向こうへとゆったりとした足取りで歩き始めた。
華は追いかけたくても、体がこわばって動けない。涙だけがぽろぽろと頬を伝う。
――行ってしまう。行ってしまう。悠河! 悠河!!
華は悠河の背中を必死で目で追う。かすんでよく見えない。お願い、花びら、そんなにたくさん降らないで。華は懸命に目を凝らす。
その時。悠河の姿が消えた。まるで、フッと風に溶けるかのように。