桜華抄
エピローグ
たくさんの時が過ぎたある春の日――
山手線のホームに立つ。
ああ、寝不足だ。体がだるい。今日の一限は絶対に眠ってしまうな。ま、でもあの授業はいいか。
それにしても昨日の新歓委員の打ち上げ、三次会まで付き合うんじゃなかった。
全学の学生会会長なんて気安く引き受けるんじゃなかった。今更後悔しても遅いが。
前を見る。いつものあの子がいた。高校生…よりもう少し上か。このホームのここに立つと、大抵彼女も向かい側のホームにいる。
肩までの黒髪にぱっちりとした大きな目。小柄で華奢な体。そう目立つ顔立ちではないのに人目を引く。なぜだろう。雰囲気か…?
いつも何かを読んでいる。時折ぶつぶつつぶやいていたり、身振り手振りが入る時もある。その一生懸命な姿をついつい盗み見してしまう。
その時、上からちらりちらりと白いものが舞い降りてきた。
桜の花びら? 桜は先週すっかり散ってしまったはずだが、どこかでまだ咲いているのだろうか。
ずきり、と胸が痛む。桜を見るといつもこうだ。誰か大切な人を置いて行かなければならない、そんな哀しみが発作のように自分を襲う。無意識に顔が歪む。実際そんな経験などないのに。
彼女の顔が本を離れ、上を見上げた。次々と降ってくる花びらを見つめながら、彼女の顔がつらそうに歪んだ。今にも泣き出しそうだ。桜に何か悲しい思い出でもあるんだろうか。
花びらを追い彼女の視線が徐々に下がってくる。ちょうど俺の目の高さまで来た。
彼女が俺の方を見る。
そのまま彼女の目は俺を見つめる。
線路をはさんで見つめ合う。
俺も目がそらせない。
彼女の黒い瞳に吸い寄せられるように。
鼓動が早くなる。
彼女を抱きしめたい――
そう思った瞬間、彼女の頬がふわっと赤く染まった。
電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえる。春の暖かな風が彼女の黒髪を揺らす。
――俺を見ている。どうして俺を。それとも…誰か後ろにいるのか?
彼女の視線を無理やり剥がすようにして後ろを振り返った瞬間、両側から電車がホームに入ってきた。あっという間に彼女の姿は見えなくなる。
もどかしい。電車のドアが開くと同時に体をすべりこませ、向かいの電車の中に彼女の姿を探す。小柄な彼女は人ごみにまぎれて見つけられない。
プッシュー
ドアが閉まる。
ガッタン
電車は走り出す。
俺を乗せた電車と彼女を乗せた電車は同じスピードで反対方向へ。
窓に片肘をつける。
ああ、行ってしまった。目の前で宝物を持っていかれたような気分だ。
そんなことを思う自分に驚く。名前も知らない、話したことも無い、ただホームで見かける子がこんなに気になるとは。今までこんなことは無かった。こんなに誰かに惹かれるなんてことは無かった。
――名も知らぬ君に恋をしたのかもしれない
頭に浮かんだ言葉に苦笑する。この俺が、恋。
今日は仕方がない。
同じ最寄り駅だし、きっとまたすぐに会える。
今度はホームに来る前に彼女をつかまえよう。そして訊けばいい。
君の名を。そして俺を見つめていたわけを。
きっとまた会えるよな。おチビさん。
…END…
山手線のホームに立つ。
ああ、寝不足だ。体がだるい。今日の一限は絶対に眠ってしまうな。ま、でもあの授業はいいか。
それにしても昨日の新歓委員の打ち上げ、三次会まで付き合うんじゃなかった。
全学の学生会会長なんて気安く引き受けるんじゃなかった。今更後悔しても遅いが。
前を見る。いつものあの子がいた。高校生…よりもう少し上か。このホームのここに立つと、大抵彼女も向かい側のホームにいる。
肩までの黒髪にぱっちりとした大きな目。小柄で華奢な体。そう目立つ顔立ちではないのに人目を引く。なぜだろう。雰囲気か…?
いつも何かを読んでいる。時折ぶつぶつつぶやいていたり、身振り手振りが入る時もある。その一生懸命な姿をついつい盗み見してしまう。
その時、上からちらりちらりと白いものが舞い降りてきた。
桜の花びら? 桜は先週すっかり散ってしまったはずだが、どこかでまだ咲いているのだろうか。
ずきり、と胸が痛む。桜を見るといつもこうだ。誰か大切な人を置いて行かなければならない、そんな哀しみが発作のように自分を襲う。無意識に顔が歪む。実際そんな経験などないのに。
彼女の顔が本を離れ、上を見上げた。次々と降ってくる花びらを見つめながら、彼女の顔がつらそうに歪んだ。今にも泣き出しそうだ。桜に何か悲しい思い出でもあるんだろうか。
花びらを追い彼女の視線が徐々に下がってくる。ちょうど俺の目の高さまで来た。
彼女が俺の方を見る。
そのまま彼女の目は俺を見つめる。
線路をはさんで見つめ合う。
俺も目がそらせない。
彼女の黒い瞳に吸い寄せられるように。
鼓動が早くなる。
彼女を抱きしめたい――
そう思った瞬間、彼女の頬がふわっと赤く染まった。
電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえる。春の暖かな風が彼女の黒髪を揺らす。
――俺を見ている。どうして俺を。それとも…誰か後ろにいるのか?
彼女の視線を無理やり剥がすようにして後ろを振り返った瞬間、両側から電車がホームに入ってきた。あっという間に彼女の姿は見えなくなる。
もどかしい。電車のドアが開くと同時に体をすべりこませ、向かいの電車の中に彼女の姿を探す。小柄な彼女は人ごみにまぎれて見つけられない。
プッシュー
ドアが閉まる。
ガッタン
電車は走り出す。
俺を乗せた電車と彼女を乗せた電車は同じスピードで反対方向へ。
窓に片肘をつける。
ああ、行ってしまった。目の前で宝物を持っていかれたような気分だ。
そんなことを思う自分に驚く。名前も知らない、話したことも無い、ただホームで見かける子がこんなに気になるとは。今までこんなことは無かった。こんなに誰かに惹かれるなんてことは無かった。
――名も知らぬ君に恋をしたのかもしれない
頭に浮かんだ言葉に苦笑する。この俺が、恋。
今日は仕方がない。
同じ最寄り駅だし、きっとまたすぐに会える。
今度はホームに来る前に彼女をつかまえよう。そして訊けばいい。
君の名を。そして俺を見つめていたわけを。
きっとまた会えるよな。おチビさん。
…END…