桜華抄
…Side Shot・華…

気づいた時、華は夕暮れの中に立っていた。机の並ぶ静かな部屋。目の前には見たことのある扉。
…美都美容本社の社長室? 今日は何しに来たんだっけ。よく思い出せない。悠河に会いに来たのよね。また何かの製作発表の話…?
悠河に会うのは怖い。美しい婚約者のいる、誰よりも好きな人。
会ったらこの気持ちを抑えなければならない。できればあまり会いたくない。
このまま帰ろうか。華はドアに背を向けようとした。が、足は固まったまま動かない。
でも、会いたい。一目でいいから、悠河に会いたい。渇くような切望が華を駆り立てる。

会いたい。

会いたい。

会いたい。

いつもならば抑えられるはなのに、今日はおかしい。華は背中を押されるように、そっとドアノブに手をかけた。ここを開ければ、このドアの向こうに悠河がいる。心臓が早鐘を打つ。手が汗ばんで震えてくる。逃げ出したい。
でも。悠河に、会いたい。


ガチャ…
無機質な音を立ててドアは開いた。夕暮れの橙色が一面に広がる窓に背を向けて、悠河はまるで華を待っていたかのように、こちらを見ていた。

「……華」

一番聞きたい、一番恋しい人の声がした。その低く柔らかな声が自分の名を呼ぶ。華の全身に喜びが走った。
言葉が出ない。しばし見つめあう。
悠河が華の方へゆっくりと歩み寄る。華の足はそれにつられて近づく。

――このままあの胸に飛び込めたら。

――このまま華を抱きしめたい。

しかし、夕暮れの窓に蛍光灯の下で白く浮かぶ自分の姿が映り、華の足が凍った。
思い出す。今まで何度も圧倒された、長身の悠河と美しい美妃の寄り添う姿。そして小さくてさえない自分の姿。

自分なんて子どもで、悠河に相手にされるわけがない。空回りするのは目に見えている。華はそのまま立ち尽くした。
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