桜華抄
触れあう,確かめ会う
突然悠河の網膜に浮かぶ、逆光の中の華の鮮やかな笑顔。
その笑顔と目の前の不安そうに見上げる顔。
二つの華の顔がぼんやりと重なる。ぶれていた像が徐々にピントを合わせ、ぴたりと一致した。
その時。悠河の全身が固まる。
まるで濃霧が一瞬にして晴れていくように、悠河の記憶がよみがえった。
――そうだ、俺は事故に遭ったんだ。
舞台の記者会見のために会社近くのホテルへ行った帰り、悠河は響と落ち合うために社用車を帰し一人歩いていた。
昼過ぎまで降っていた小雨が上がり、春特有のやわらかな風が真澄の頬をなでた。
桜並木を見上げる。二分咲きで雨に濡れた桜は、濃いピンク色のつぼみを風に揺らしていた。
――もうすぐ月下美人の地方公演が始まるな。
悠河の口元が少しゆがむ。華と別れて半年か。
珠美優香をおさえ、月下美人主演となった華は美都芸能への所属を決めた。上演権は悠河との共同管理とすることに、華は素直に了承した。
そしてその直後、悠河てに、華から一通の手紙が響へ託された。そこには悠河への言葉尽くしの感謝と、もう二度と会わないで下さい、との明白な拒絶が書かれていた。
本来であれば、悠河は月下美人の決定一か月後には美妃と結婚する予定であったが、体調を崩した美妃の回復を待つためという理由で、結婚は延期された。美妃は医師の勧めもあり、現在は軽井沢の別荘で過ごしている。
美妃の顔を見なくて済むのは、悠河にとって最大の癒しであった。
何度も、張りつめたまなざしで華との関係を詰問された。悠河はその度に当たり障りのない優しげな言葉で逃げた。
悠河の心を自分の方に向けようと、画策もした。悠河は作られた笑顔でするりとかわした。
美妃は嫉妬で徐々に疲弊していった。
そしてついに美妃は、直接華に攻撃を仕掛けた。常陸宮の息のかかった雑誌記者に華の中傷記事を書かせようとしたのだ。
が、
悠河はそのことを事前に察知し、怒りのまま美妃を問い詰めた。完全に優しさの仮面を捨て去り、自分に愛情を求めるのは無駄なことだと冷たく言い放った。
その出来事を機に、美妃は軽井沢へと去っていった。
真澄は、目の前の桜のつぼみを見上げながら思う。あの雨の中でずぶぬれになっていた華の姿を。この腕の中に抱きしめた濡れた小さな体。
華の匂い。
伏せた長い睫毛。
そしてあの朝、掠め取るように奪った唇。
いつまでも未練がましいな。俺は。悠河は苦笑して頭を一振りした。
春の突風が吹き抜けた。
悠河のコートをはためかせ、桜の木からはぱらぱらと雨粒が降る。
前を歩くランドセルを背負った小柄な少年が雨粒に驚き、「わあっ」と声を上げ、駆け出そうとした。
その瞬間。
交差点の向こう側から、一台の車が猛スピードで走って来た。
嫌な予感がした。
そのダークブルーの車は、右折をしてきたトラックに 『ドンッ』 と大きな音を立ててぶつかった。と同時に、衝突のはずみで、まるで吸い寄せられるようにこちらへ向かって来た。
目の前ではおびえた子犬のように少年が立ちすくむ。
悠河は腕を伸ばし少年を無理やり右へ突き飛ばす。転がる少年。
真澄は前のめりになり、大きくバランスを崩した。
『ぶつかる!!!!』
スローモーションで近づく、ダークブルーのボンネット。ハンドルを握ったまま、恐怖で目を見開く男の顔。
その時、車の背後から灰色の雲間を切り裂き、ぎらつく金色の西日が一直線に悠河の両目を貫いた。
ハレーションを起こした光の中、華の笑顔が脳裏に浮かび上がり、そのまま網膜へ鮮やかな残像となって焼きつく。悠河は最愛の人の笑顔を見つめ、心の中で絶叫した。
『華!!!!!』
その笑顔と目の前の不安そうに見上げる顔。
二つの華の顔がぼんやりと重なる。ぶれていた像が徐々にピントを合わせ、ぴたりと一致した。
その時。悠河の全身が固まる。
まるで濃霧が一瞬にして晴れていくように、悠河の記憶がよみがえった。
――そうだ、俺は事故に遭ったんだ。
舞台の記者会見のために会社近くのホテルへ行った帰り、悠河は響と落ち合うために社用車を帰し一人歩いていた。
昼過ぎまで降っていた小雨が上がり、春特有のやわらかな風が真澄の頬をなでた。
桜並木を見上げる。二分咲きで雨に濡れた桜は、濃いピンク色のつぼみを風に揺らしていた。
――もうすぐ月下美人の地方公演が始まるな。
悠河の口元が少しゆがむ。華と別れて半年か。
珠美優香をおさえ、月下美人主演となった華は美都芸能への所属を決めた。上演権は悠河との共同管理とすることに、華は素直に了承した。
そしてその直後、悠河てに、華から一通の手紙が響へ託された。そこには悠河への言葉尽くしの感謝と、もう二度と会わないで下さい、との明白な拒絶が書かれていた。
本来であれば、悠河は月下美人の決定一か月後には美妃と結婚する予定であったが、体調を崩した美妃の回復を待つためという理由で、結婚は延期された。美妃は医師の勧めもあり、現在は軽井沢の別荘で過ごしている。
美妃の顔を見なくて済むのは、悠河にとって最大の癒しであった。
何度も、張りつめたまなざしで華との関係を詰問された。悠河はその度に当たり障りのない優しげな言葉で逃げた。
悠河の心を自分の方に向けようと、画策もした。悠河は作られた笑顔でするりとかわした。
美妃は嫉妬で徐々に疲弊していった。
そしてついに美妃は、直接華に攻撃を仕掛けた。常陸宮の息のかかった雑誌記者に華の中傷記事を書かせようとしたのだ。
が、
悠河はそのことを事前に察知し、怒りのまま美妃を問い詰めた。完全に優しさの仮面を捨て去り、自分に愛情を求めるのは無駄なことだと冷たく言い放った。
その出来事を機に、美妃は軽井沢へと去っていった。
真澄は、目の前の桜のつぼみを見上げながら思う。あの雨の中でずぶぬれになっていた華の姿を。この腕の中に抱きしめた濡れた小さな体。
華の匂い。
伏せた長い睫毛。
そしてあの朝、掠め取るように奪った唇。
いつまでも未練がましいな。俺は。悠河は苦笑して頭を一振りした。
春の突風が吹き抜けた。
悠河のコートをはためかせ、桜の木からはぱらぱらと雨粒が降る。
前を歩くランドセルを背負った小柄な少年が雨粒に驚き、「わあっ」と声を上げ、駆け出そうとした。
その瞬間。
交差点の向こう側から、一台の車が猛スピードで走って来た。
嫌な予感がした。
そのダークブルーの車は、右折をしてきたトラックに 『ドンッ』 と大きな音を立ててぶつかった。と同時に、衝突のはずみで、まるで吸い寄せられるようにこちらへ向かって来た。
目の前ではおびえた子犬のように少年が立ちすくむ。
悠河は腕を伸ばし少年を無理やり右へ突き飛ばす。転がる少年。
真澄は前のめりになり、大きくバランスを崩した。
『ぶつかる!!!!』
スローモーションで近づく、ダークブルーのボンネット。ハンドルを握ったまま、恐怖で目を見開く男の顔。
その時、車の背後から灰色の雲間を切り裂き、ぎらつく金色の西日が一直線に悠河の両目を貫いた。
ハレーションを起こした光の中、華の笑顔が脳裏に浮かび上がり、そのまま網膜へ鮮やかな残像となって焼きつく。悠河は最愛の人の笑顔を見つめ、心の中で絶叫した。
『華!!!!!』