桜華抄
華の肩がびくりと震えた。悠河はいつの間にか縋るように華を抱きしめていた。
変わらぬ橙色の夕焼けが社長室の窓に広がる。
「今、一瞬見えたの。悠河が男の子を突き飛ばして、そしたら、車が近づいてきて…。本当のこと…?」
「たぶん、本当だ」
事故の瞬間に、私を思い出して名前を呼んでくれた……喜ぶにはあまりにも悲しすぎる事実。華は悠河の背中に伸ばした腕にありったけの力を込めた。
俺のことを嫌っているはずの華が俺の背に手を回し強く抱きしめている。信じられないほど幸せな夢だ。死ぬ直前に見る夢としては最高だな。
「たとえ夢でも、こうして君に会えるとは思っていなかった」
「ここが夢の中でも、私はちゃんとした本物よ。私、ここに来る前、病院で悠河の手を握ってた。それでそのまま眠ってしまって…」
確かに華が来る直前、右手に温かさを感じたことを悠河は思い出した。
では、あれは華の手だったのか。しかし、何で本物の華が俺の夢の中にいるんだ。それこそありえないことだ。今日の華はこんなに近くにいる。なぜいつものように俺から逃げないのだ。本物本物と言うが、どうしても信じられない気持ちが残る。
悠河が自分を抱きしめている。夢の中の夢のような出来事。もう少しだけ、このまま夢を見ていたい。でも…確かめたい。
ふいに華が口を開く。
「あのね、悠河。紫音さんから聞いたんだけど…私のこと…まだ好きなの?」
「……!」
悠河は突然の華の問いにあわてて体を離す。華は不安そうに悠河を見上げる。
「やっぱり違うよね。そんなわけないもの…」
夢の中でもそううまくはいかない。先ほどまでの高揚感はあっという間にしぼみ、華は悠河からおずおずと後ずさる。
「華。君の方こそ、何で俺のところに来たんだ。君だって憎たらしい俺の顔なんか見たくないだろう」
俯きながら、華はぽつりとこぼした。
「会いたかったから。悠河に」
夕焼けを浴びて華の頬が赤く染まる。少し怒ったような口調で続ける。
「会いたくて、目を開けて欲しくて、ずっと手を握ってた。このまま悠河が死んじゃうなんてイヤだったから」
――夢だ。これは。華がこんなこと言うわけがない。
――もう悠河きっと気づいている。今更隠せない。
「…だって…まだ悠河のこと、私」
――俺の幻想だ。都合のいい夢だ。
――言ったって、きっと何も変わらない。
「好きだった…」
きっとこれは俺の作り出した夢だ。けれども――
私なんかが相手にされるわけがないけど――
悠河は潤んだ大きな瞳で見上げる華の頬に手を当てる。こんな幸せなことがあっていいのだろうか。決して手に入らないと思っていた華の心が、すでに自分の掌中にあったなどということが。
しっかりと掴んでいなければ、すぐにするりと逃げ出してしまいそうな華。悠河は必死に手を伸ばすように告げた。
「俺も君のことを愛している」
「……え?」
悠河の低くやわらかな声を、華は信じられない思いで受け止めた。
紫音さんが言ってたのは、本当だったの? 悠河が、私を? ダメだ。うれしくなってしまう。からかわれているだけかもしれないのに。信じてしまいそう。
「…ホントに? ホントに? からかってないよね?」
「本当だ。俺の方こそ聞きたい。君の気持ちは本当なのか? 本当に君は本物の華なのか?」
「もう。悠河、しつこい!」
華はくすりと笑う。
悠河も信じられないんだろうか。私の気持ちなんてこんなに溢れ出しているのに。
「あまりにも俺にとって都合がよすぎる。君は俺を嫌っていただろう」
「私、もうずいぶん前から悠河のこと好きだったのよ」
悠河は困ったような笑顔を返す。
「ほら。それが信じられないんだ。俺は、君の大切な妹を殺した男だぞ」
うれしかった華の気持ちがぴたりと止まる。
やはり悠河はそのことを気にしていたんだ。命日に必ず墓前に供えられていたかすみ草の花束。
華は窓辺に近寄り、夕日を見つめる。雨を含んだ灰色の雲とまぶしいくらい鮮やかな橙黄色が広がる。
「私はそれよりずっと前にお芝居のために家出をしたわ。妹よりも演劇を取ったの。迎えに来た妹を追い返したこともあった」
そしてお芝居に夢中になり、その事実には無意識に蓋をしていた。
「そんな私が悠河を責めることなんてできない。でも、妹が死んだのを悠河のせいにしてた。その方が楽だったから。自分の罪には気づかないふりをしてた」
何度この人にひどい言葉を浴びせたことか。どれだけ傷つけてきたことか。それをどんな気持ちで受け止めてきてくれたのか。
今も悠河はそんな時と同じように少し悲しげなまなざしで自分をみつめている。
「確かに悠河は許されないことをしたのかもしれないけど、でも悠河は逃げなかった。正面から向かって受け止めてくれた。そしていつも私を支えてくれた。自分の罪から逃げていた私の方がずっとずっとずるい」
「華…そんなことはない。俺は君に一生心に残る傷を負わせた。償いきれるものではない」
悲しみの色を濃くした瞳で悠河は言う。
華は首を振る。青々とした葉を広げる観葉植物にそっと触れる。新緑の若芽が揺れた。
「傷だっていつかは癒えるものでしょう…。悠河がずっと私を見守ってくれたから、今の私があるんだから」
華は真っ直ぐに伸びる萌黄色の若芽をなで、深く一息ついた。
「悠河。叱咤してくれる美都芸能の鬼社長とやさしく支えてくれるかすみ草の人の二役をしてくれてありがとうございました」
「……!」
悠河が目を見開く。
「とっくにバレてましたよ。悠河」
華はいたずらっぽい目を向ける。
「絶対に言わないって決めてたんだけど。ああ、言っちゃった。かすみ草の人からはもう卒業して、自分一人で歩いていくつもりだったの。悠河はすぐに結婚してしまうと思ってたし…」
「マヤ。かすみ草の人への最後の手紙は、俺に宛てていたのか」
「うん…」
「すまなかった。君が知っていたとは…全然気づかなかった」
あれから半年。一向に結婚しない悠河を見るのは、つらかった。なまじ僅かでも期待をもてる状態は、華にとって生殺しのようなものだった。だから、余計に悠河から逃げ回っていたのだった。
――そうだ。美妃さんはどうしているのだろう。
華の背筋をひんやりとした嫌な感じが伝う。華は無意識に両腕で自分を抱き、身震いをした。
ああ、私はまた突拍子もないことをしてしまった。あんなに美しい婚約者がいる人に告白するなんて。思いが通じたような気になって浮かれてしまうなんて。
「あ、あの。悠河」
華はさらに一歩後ろへ後ずさる。
「なんだ」
「美妃さんじゃなくて、ごめんなさい」
「…何…を」
「あの…事故を聞いて、美妃さんは倒れてしまって、病院へ来れないって紫音さんが言ってた。それで…私が代わりに付き添っていただけ。きっとここへも、そのせいで美妃さんが来れないんだと思う。ごめんなさい…私なんかが来ちゃって…。おまけに、何だか変なことまで言って…。ごめんなさい」
一気に言うと、華は膝に頭がつくかのように深く頭を下げた。真澄は華の揺れる茶髪を見つめた。
華は自分と美妃の間で起きたことを、まったく知らない。まだ変わらず婚約をしていると思っているのだろう。もう破談は時間の問題だったというのに。
「華」
「ん?」
華はそのまま下を向いている。
「顔を上げなさい」
「いや」
もう涙がこみあげてしまった。こんな顔を見られたくない。
「華」
悠河は膝を折り、華の顔を覗き込む。華は懸命に顔を背ける。涙がひとすじ流れてしまった。なんだかくやしい。
「もう婚約は破談寸前だったんだ」
――ウソ。
「美妃さんは…俺が君を忘れられないことに気づいていた。それがどうしても許せなかったようだ」
――悠河は、そんな美妃さんが好きだったんでしょう?
「俺は彼女を傷つけ、彼女はそのまま去っていった。婚約は延期となった」
「…でも、まだ続いているんでしょ?」
「もう終わりだ」
悠河は膝立ちのまま、華を抱きしめた。いつもより顔と顔が近い。華は恥ずかしさに目を閉じた。
「君を手に入れたから」
夕日が二人を包み込むように照らしていた。
変わらぬ橙色の夕焼けが社長室の窓に広がる。
「今、一瞬見えたの。悠河が男の子を突き飛ばして、そしたら、車が近づいてきて…。本当のこと…?」
「たぶん、本当だ」
事故の瞬間に、私を思い出して名前を呼んでくれた……喜ぶにはあまりにも悲しすぎる事実。華は悠河の背中に伸ばした腕にありったけの力を込めた。
俺のことを嫌っているはずの華が俺の背に手を回し強く抱きしめている。信じられないほど幸せな夢だ。死ぬ直前に見る夢としては最高だな。
「たとえ夢でも、こうして君に会えるとは思っていなかった」
「ここが夢の中でも、私はちゃんとした本物よ。私、ここに来る前、病院で悠河の手を握ってた。それでそのまま眠ってしまって…」
確かに華が来る直前、右手に温かさを感じたことを悠河は思い出した。
では、あれは華の手だったのか。しかし、何で本物の華が俺の夢の中にいるんだ。それこそありえないことだ。今日の華はこんなに近くにいる。なぜいつものように俺から逃げないのだ。本物本物と言うが、どうしても信じられない気持ちが残る。
悠河が自分を抱きしめている。夢の中の夢のような出来事。もう少しだけ、このまま夢を見ていたい。でも…確かめたい。
ふいに華が口を開く。
「あのね、悠河。紫音さんから聞いたんだけど…私のこと…まだ好きなの?」
「……!」
悠河は突然の華の問いにあわてて体を離す。華は不安そうに悠河を見上げる。
「やっぱり違うよね。そんなわけないもの…」
夢の中でもそううまくはいかない。先ほどまでの高揚感はあっという間にしぼみ、華は悠河からおずおずと後ずさる。
「華。君の方こそ、何で俺のところに来たんだ。君だって憎たらしい俺の顔なんか見たくないだろう」
俯きながら、華はぽつりとこぼした。
「会いたかったから。悠河に」
夕焼けを浴びて華の頬が赤く染まる。少し怒ったような口調で続ける。
「会いたくて、目を開けて欲しくて、ずっと手を握ってた。このまま悠河が死んじゃうなんてイヤだったから」
――夢だ。これは。華がこんなこと言うわけがない。
――もう悠河きっと気づいている。今更隠せない。
「…だって…まだ悠河のこと、私」
――俺の幻想だ。都合のいい夢だ。
――言ったって、きっと何も変わらない。
「好きだった…」
きっとこれは俺の作り出した夢だ。けれども――
私なんかが相手にされるわけがないけど――
悠河は潤んだ大きな瞳で見上げる華の頬に手を当てる。こんな幸せなことがあっていいのだろうか。決して手に入らないと思っていた華の心が、すでに自分の掌中にあったなどということが。
しっかりと掴んでいなければ、すぐにするりと逃げ出してしまいそうな華。悠河は必死に手を伸ばすように告げた。
「俺も君のことを愛している」
「……え?」
悠河の低くやわらかな声を、華は信じられない思いで受け止めた。
紫音さんが言ってたのは、本当だったの? 悠河が、私を? ダメだ。うれしくなってしまう。からかわれているだけかもしれないのに。信じてしまいそう。
「…ホントに? ホントに? からかってないよね?」
「本当だ。俺の方こそ聞きたい。君の気持ちは本当なのか? 本当に君は本物の華なのか?」
「もう。悠河、しつこい!」
華はくすりと笑う。
悠河も信じられないんだろうか。私の気持ちなんてこんなに溢れ出しているのに。
「あまりにも俺にとって都合がよすぎる。君は俺を嫌っていただろう」
「私、もうずいぶん前から悠河のこと好きだったのよ」
悠河は困ったような笑顔を返す。
「ほら。それが信じられないんだ。俺は、君の大切な妹を殺した男だぞ」
うれしかった華の気持ちがぴたりと止まる。
やはり悠河はそのことを気にしていたんだ。命日に必ず墓前に供えられていたかすみ草の花束。
華は窓辺に近寄り、夕日を見つめる。雨を含んだ灰色の雲とまぶしいくらい鮮やかな橙黄色が広がる。
「私はそれよりずっと前にお芝居のために家出をしたわ。妹よりも演劇を取ったの。迎えに来た妹を追い返したこともあった」
そしてお芝居に夢中になり、その事実には無意識に蓋をしていた。
「そんな私が悠河を責めることなんてできない。でも、妹が死んだのを悠河のせいにしてた。その方が楽だったから。自分の罪には気づかないふりをしてた」
何度この人にひどい言葉を浴びせたことか。どれだけ傷つけてきたことか。それをどんな気持ちで受け止めてきてくれたのか。
今も悠河はそんな時と同じように少し悲しげなまなざしで自分をみつめている。
「確かに悠河は許されないことをしたのかもしれないけど、でも悠河は逃げなかった。正面から向かって受け止めてくれた。そしていつも私を支えてくれた。自分の罪から逃げていた私の方がずっとずっとずるい」
「華…そんなことはない。俺は君に一生心に残る傷を負わせた。償いきれるものではない」
悲しみの色を濃くした瞳で悠河は言う。
華は首を振る。青々とした葉を広げる観葉植物にそっと触れる。新緑の若芽が揺れた。
「傷だっていつかは癒えるものでしょう…。悠河がずっと私を見守ってくれたから、今の私があるんだから」
華は真っ直ぐに伸びる萌黄色の若芽をなで、深く一息ついた。
「悠河。叱咤してくれる美都芸能の鬼社長とやさしく支えてくれるかすみ草の人の二役をしてくれてありがとうございました」
「……!」
悠河が目を見開く。
「とっくにバレてましたよ。悠河」
華はいたずらっぽい目を向ける。
「絶対に言わないって決めてたんだけど。ああ、言っちゃった。かすみ草の人からはもう卒業して、自分一人で歩いていくつもりだったの。悠河はすぐに結婚してしまうと思ってたし…」
「マヤ。かすみ草の人への最後の手紙は、俺に宛てていたのか」
「うん…」
「すまなかった。君が知っていたとは…全然気づかなかった」
あれから半年。一向に結婚しない悠河を見るのは、つらかった。なまじ僅かでも期待をもてる状態は、華にとって生殺しのようなものだった。だから、余計に悠河から逃げ回っていたのだった。
――そうだ。美妃さんはどうしているのだろう。
華の背筋をひんやりとした嫌な感じが伝う。華は無意識に両腕で自分を抱き、身震いをした。
ああ、私はまた突拍子もないことをしてしまった。あんなに美しい婚約者がいる人に告白するなんて。思いが通じたような気になって浮かれてしまうなんて。
「あ、あの。悠河」
華はさらに一歩後ろへ後ずさる。
「なんだ」
「美妃さんじゃなくて、ごめんなさい」
「…何…を」
「あの…事故を聞いて、美妃さんは倒れてしまって、病院へ来れないって紫音さんが言ってた。それで…私が代わりに付き添っていただけ。きっとここへも、そのせいで美妃さんが来れないんだと思う。ごめんなさい…私なんかが来ちゃって…。おまけに、何だか変なことまで言って…。ごめんなさい」
一気に言うと、華は膝に頭がつくかのように深く頭を下げた。真澄は華の揺れる茶髪を見つめた。
華は自分と美妃の間で起きたことを、まったく知らない。まだ変わらず婚約をしていると思っているのだろう。もう破談は時間の問題だったというのに。
「華」
「ん?」
華はそのまま下を向いている。
「顔を上げなさい」
「いや」
もう涙がこみあげてしまった。こんな顔を見られたくない。
「華」
悠河は膝を折り、華の顔を覗き込む。華は懸命に顔を背ける。涙がひとすじ流れてしまった。なんだかくやしい。
「もう婚約は破談寸前だったんだ」
――ウソ。
「美妃さんは…俺が君を忘れられないことに気づいていた。それがどうしても許せなかったようだ」
――悠河は、そんな美妃さんが好きだったんでしょう?
「俺は彼女を傷つけ、彼女はそのまま去っていった。婚約は延期となった」
「…でも、まだ続いているんでしょ?」
「もう終わりだ」
悠河は膝立ちのまま、華を抱きしめた。いつもより顔と顔が近い。華は恥ずかしさに目を閉じた。
「君を手に入れたから」
夕日が二人を包み込むように照らしていた。