ファントム・アンド・ローレライ
第一章 天使の声

始まりはゴミ捨て場

 これは、非常に、ヤバい。

 時刻は18時32分。裏通りにある小さな公園で、倉間響子はこれ以上ないというほど混乱していた。心臓はバスドラムのように胸を叩くし、暑くもないのに額から汗が吹き出る。突然の事態を前に、からだが言うことをきかなくなっていた。仮に言うことをきいたとしても、今の状況ではまともに身動きなど取れないだろうが。

 響子は押し倒されていた。

 かなり背の高い、体格のいい男だった。どちらかといえば痩せぎみに感じるが、骨格からして大きいのだろう。女のなかでは相当背の高い部類に入る響子だが、それでもなお男の方がかなりでかい。190センチくらいあってもおかしくない、そんな大男に公園のゴミ捨て場で押し倒されている。

 しかも街灯に照らされた男の風貌がこれまた奇抜というか、歩いただけでおまわりさんに声をかけられるのではないかという、そんないでたちなのだ。襟ぐりの伸びきったグレーのシャツに、色褪せた黒のコート。そのコーディネートだけで一部の女性からは嫌厭されることだろう。しかしここまでならまだ、独身男性にありがちなファッションだ。シャツから覗く鎖骨が妙に白くてきれいだとか、そんなことより注目すべきはその顔だ。顔と言っていいのか分からないが。

 すなわち、ゴムマスクだ。

 男は目と口の部分に穴のあいた、白いゴムマスクを装着していた。イマドキ銀行強盗だってこんな顔の隠し方はしないのではないだろうか。ベタだ、あまりにもベタすぎる。露出狂の類いかとも響子は思ったが、触れあう脚の感触から推察するに、ちゃんと下半身も衣服に包まれている。そこはひとまず安心だ。

 現実逃避の一環とはいえ、この状況で響子が悠々と男を観察できたのには訳がある。

 ひとつはその男――響子を押し倒したゴムマスクマン本人も、何が起こったのか分からないという様子で、彼女以上に大混乱しているのが見てとれたからだった。

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