ファントム・アンド・ローレライ
 男が上から退いたというのに、体を起こすことすら忘れてしまっていた。再び黙りこんでしまった響子に、男が控えめに「あの、」と声をかける。はっと我に返った響子が「あっ、ああ! スミマセン!」ととっさに謝ると、男はびくっと体を跳ねさせた。でかい体の割に、気は小さそうだ。目も不安そうに揺れている。

 ゴムマスクを被っていても、案外表情って分かるもんだな。イケメンボイスの衝撃から戻ってきた響子は、ゆっくりと起き上がってから、改めて男を観察しはじめた。

 予想の通り男はきちんと黒のジーンズを着用していた。露出狂でないことを再確認したのはいいが、見れば見るほど訳アリだ。擦りきれたジーンズの裾からは赤黒い痣が見え隠れしている。見ているだけで痛々しいその痣は、どうやら足首以外にもありそうだ。さっきから男はほんの少し動くだけでも、体のどこかしらを庇っているので。

 よくよく見れば真っ白な首にもうっすらと、赤い跡がついている。まるで首輪をつけていたみたいだな、と響子はなんとなしに思った。

「あの、本当になんでこんなことしたのか、言っても信じてもらえないとは思うんだが、その。本当、なんで俺は……」

「あー、いや、大丈夫ですから。落ち着いてください。なんで押し倒したのか、分からないんですよね? 分かりますから、大丈夫です」

 あわてふためくゴムマスクをどうにか落ち着かせようと響子が返した言葉は、結果ますます彼を困惑させてしまったらしい。とはいえこれ以上の説明をしようとすると、こっちこそ『言っても信じてもらえない話』のオンパレードになる。説明を諦めた響子は、「体の方は大丈夫ですか」と尋ねることで、話を無理矢理変えることにした。

「なんかあちこち痛そうですけど」

「いや、俺の方は、……大丈夫だけど。君の方こそ、どこか痛めたりは……」

「私の方は見ての通り。全然平気ですよ」

「……良かった」

 あー、本っ当、いい声だわあ。

 響子がそんなことを考えているなんて、想像もしていないのだろう。彼女がわざとらしく両腕を広げて見せながら、怪我がないことを伝えると、男はようやく少し安心したのかぎこちなく微笑んだ。なんだこのゴムマスク、かわいいな? 推定190センチの覆面男にはおよそ似つかわしくない形容かもしれないが、思ったものは仕方がない。口にこそしなかったが、響子のなかで男に貼りつけたレッテルは『不審者』ではなく、『訳アリっぽいけどかわいいイケメンボイス』、である。

 ふと、男の後頭部に、何かが貼り付けてあることに響子は気付いた。B5くらいの大きさの紙。場所が場所だ、ゴミが乗っかっているのかとも思ったが、どうやら違うらしかった。ひらひらと男の動きに合わせて揺れるそれは、重力に従うことなくそこに留まっている。

「ちょっと失礼」

「えっ、わ、」

 身を乗りだし、男の後頭部に手を伸ばす。ベリ、と小さい音を立てて、紙は簡単に男のゴムマスクから剥がれた。テープで1ヶ所とめてあっただけのようだ。

 きょとんとする男をよそに、響子は剥がした紙を見て――数秒間、沈黙した。

「……お兄さん」

「え」

「この文面見て、何か心当たりはあります?」
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