学芸員の憂鬱
「…これ…紙だったら…かなりの厚さやろうなぁ…」
書類作成の為に監査室に残った雨衣が解放されたのは数時間後だった。
ペーパーレスを提唱している博物館の意向で提出書類以外はタブレットを使用する。
寄贈品の写真を撮り、銘や箱書きを記し、特徴等を書き込んだファイルの入った画面を見つめる。
(あの子と組むと…タブレット持ち歩くだけじゃ足りへんから…)
雨が上がり、薄っすらと西日が差し込む館内を雨衣は歩く。
後、一時間もすれば閉館の時間を迎える。
そんな閑散とした館内に、疎に見学者が見える。
「へぇ…じゃあ、あの展示物だけ照明が暗いのは?」
「色が照明で色が褪めてしまわない様に…温度や湿度の管理も必要なんだよ」
「そうなんだ…」
今日の本来の持ち場であったはずの場所に雨衣は戻り、会話に耳を傾けつつ、作成した資料に目を落とす。
(館内の設備についてじゃなくて、展示されてる品について話してくれればいいのに…)
このまま資料に吸い込まれる予定だった雨衣は顔を上げた。
(あれ?尽君?)
首にカメラを掛けた女性に館内の案内をする後ろ姿は学生服で…
紛れもなく尽だった。
「ありがとうー楽しかった」
一通り館内を周った後、尽は女性を入口まで見送る。
「旅行、楽しんでね」
「もう閉館の時間でしょ?帰らないの?」
交換した連絡先を確認しながら女性が笑う。
「もう少しね…じゃあ…」
背中を見送った尽が踵を返すと、そのまま雨衣の所にやって来る。
「雨…上がってるよ?傘無くても帰れたんじゃない?」
「雨衣を待ってたん…」
と、言いかけて尽が館内に響く音のくしゃみをする。
「髪!まだ濡れとるやん…乾かさなかったの?」
照明が落とされて行く館内を歩く雨衣に尽が続く。
「だって、あの部屋苦手なんだよ…」
修復室の事だろうか?
「風邪だと困るでしょ?鼻が利かなきゃ」
「あの部屋、色々混ざってて嫌いなんだ…」
再び響き渡るくしゃみを一つ。
「…さっきの女の子は?」
「んー一人旅だって…」
「それだけ?」
「そうだけど…酷いよな…館内を撮影しようとしててさ…注意書き位見ろよな」
そう言いながら交換したばかりの連絡先をスマホから消去する。
「仲良くなったんでしょ?」
呆れた口調で雨衣が言う。
「え?面倒なだけだよ…雨衣にはそう見えたんだ?」
少しだけ嬉しそうに尽が言う。
「私は親しくならなきゃ連絡先なんて交換しないから…ほら!入って!」
修復室のドアの前で尽を促す。
「え?嫌だ!苦手なんだよ…この部屋…」
その時、内側から勢い良くドアが開く。
「……」
目の前に立ちはだかったスーツにエプロン、アームカバーを着けた美しい顔をした男性だった。
「あ…侘助(わびすけ)さん…」
尽が微妙な表情を浮かべる。
「すみません、侘助さん…ドライヤーお借り出来ますか?」
抵抗を諦めた尽を部屋に押し込み、雨衣が尋ねる。
「壁に掛かってます…それから…例の物のセッティング終わりました」
「ありがとうございます…明日には使えますよね?」
侘助に睨まれ、動けない尽をそのままにして雨衣はドライヤーの準備に入る。
「大丈夫だと思います…苦手…ですか?私が?部屋が?」
一瞬だけ目線を雨衣に向けた侘助が尽に聞く。
「…いや…あの…部屋が…部屋の空気が苦手…です…」
「そうですか…入りますか?」
「…はい…失礼します…」
負けてしまった様子で大人しく修復室へ入る。
そのまま、雨衣が手渡したドライヤーを使い、濡れ髪を乾かす。
「結構、降りましたよね…傘もささずに?」
「そうなんです…面倒だとかいって…」
「風邪だと困るのは尽君でしょうに…」
きちんと整理された部屋とは違い、色んな物が広げられた自分専用の机に侘助は向かう。
「そうなんですけど…イマイチ自覚を持って無くて…」
霧吹きで水を和紙に拡げる侘助の手元に雨衣が注目する。
「これは?」
「…新しく見つかった攘夷派が関係者に送った手紙です」
「この時代の方は達筆な方が多いですよね…」
「ええ…読み書きが出来ない人が多い時にですからね…剣の腕と同じ位に文字も練習したはずです」