BGM
☆
雨の音に負けじと、ミサトはiPodのボリュームを上げた。それでもビニール傘に雨粒のユニゾンが連打され、駅に流れ込む人々が、風が、アナウンスが、ミュージックとは違う自然音を形成しているのを彼女は感じたった。それだけ神経が敏感になり、ある意味では弱っている証拠かもしれない。
会いたい。
弱った日は人恋しくなるものだ。それは男女関係ない自然な感情だと思う。何を語るでもなく、ただ寄り添うだけでいい。一人で物事を解決するのも当然立派な行為だが、命を宿すものにとって何が大事かといえば、共有することだ。肌を、指先を、髪を、唇を、心を、思い出を。
駅のホームにオレンジ色の光を帯びた列車が雨を纏いながら停止した。ミサトはメールで彼に連絡したが未だに返事はない。忙しいのだろうか、電話しようか、そんなことを考えながら列車に乗り込んだ。
ミサトは二年制の専門学校を卒業後、兼ねてからの夢であり憧れでもあるグラフィックデザインを扱っている会社に新卒で入社した。が、憧れは理解から最も遠い感情ということを思い知らされる。華やかに見えた業界も、実は泥臭く、下積み期間が長いことを思い知らされた。結局本格的なデザイン業務を行ったのが入社四年目であり、はじめてコンペに参加した。とある企業のブランドキャラクターをデザインするもので、ミサトは今までの苦悩と努力をそこにぶつけた。その甲斐あってか、見事にミサトがデザインしたブランドキャラクターが採用されたのである。そこから今までうまくいってなかったことが嘘のように、ミサトが企画デザインしたものが採用されるようになった。社内でも評価が上がり、自信に繋がった。
「ミサト!綺麗になった。輝いてみえる」二年先輩のジュンコがいった。斬新さはないのだが確実なデザインをする。
「ホントですか!?自分では気づかないから」
嘘である。二十七年間脱色したことのない黒髪は、ここ最近、艶やいていると実感している。ぷりっとした肌、唇は、男性に言い寄られる機会も少なくない。
「そういえばさ、今週の土曜暇?知り合いがバーでピアノ弾くんだけど、行かない?」
「いいですね。行きましょう」とミサト。
「ストレス発散がてらにね」
ジュンコに連れて行ってもらったバーでユウタに出会った。不定期に趣味であるピアノを弾き語り、昼間は会社員として働いている。フェミニンさを漂わせる顔立ちに、それに似つかわしい癖っ毛の髪。笑うとくしゃっとした笑顔になる。
「ピアニストの夢は捨ててないんだ」
そう言う彼の眼差しは輝いて見えた。社会の汚れは知っているのだろうが、夢を語るユウタの眼差しは道しるべのない地図と一緒だった。そう、白紙の地図に描くのは自分次第とでもいうように。
どちらが言い寄り、どちらから歩み寄ったのかは定かではない。運命、という言葉を軽々しく使いたくはないが、それに近しい何かがミサトとユウタを見えざる力が引き寄せ、繋げた。
最寄り駅に着いた頃には雨風が強くなった。傘は使いものにならなくなった。ミサトは雨に打たれながら帰宅することになった。落胆は全てを奪いさる力を持っている。
というのも、仕事で自分が生み出したアイディアをよりによって先輩であるジュンコに模倣されたからだ。それにもなに食わぬ顔で。ミサトは絶句とともに、ジュンコに対する信頼は消え失せた。もちろんそこには悔しさもあり、競争社会の成れの果てを思い知った。
涙。
ミサトは自分自身が泣いていることに気づいた。しかし、それは涙なのか雨粒なのかわからない。神経が麻痺し、濡れた身体は心と共に、冷えているような気がした。季節は春であり、冷え込んでいるわけではないのだが。
更新期限が近づいているマンションに辿り着き、所定の手続きをし、ドアを開けた。暗闇ではなく、光があった。
希望の光。
そこで出迎えていたのは、ユウタだった。くしゃっとした笑みを讃えながら。
「ずぶ濡れじゃないか」
穏やかな彼の声がミサトの耳奥を刺激する。
それがスイッチだった。破裂した風船のように合図と気づきは同義だった。ミサトはユウタに抱きついていた。玄関は彼女から滴る水滴の音がメトロノームのように規則的な音を奏でる。
ピチャ、ピチャ。
一定の周期を保つ水滴音が激しさから緩慢になったとき、ユウタが彼女の両頬を両手で包み込み、目線を合わせた。
「泣いているの?」
小首を軽く傾げながらユウタが甘い吐息と共に声をなびかせた。
ミサトは頷くこともできなかった。あまりに純粋でまっさらな瞳に、動き、を失ったからだ。ユウタの繊細な指が彼女の頬から唇に転調し、唇から指が離された刹那、綿毛のような柔らかな唇が重なった。一度、唇が離れ、もう一度、より強く。さらに、強く。
「私の今の心にはどんな曲が似合うかな」
ミサトは震える声で言った。
「もう曲は流れてるよ」とユウタ。
「えっ!?」
「心を打たれるBGMは、ミサトの涙」
意志を持った言葉にミサトはとろっとした目になり、その一瞬を見逃さなかったユウタの精密で綿密な唇が彼女の下唇に触れ溶けた。
会いたい。
弱った日は人恋しくなるものだ。それは男女関係ない自然な感情だと思う。何を語るでもなく、ただ寄り添うだけでいい。一人で物事を解決するのも当然立派な行為だが、命を宿すものにとって何が大事かといえば、共有することだ。肌を、指先を、髪を、唇を、心を、思い出を。
駅のホームにオレンジ色の光を帯びた列車が雨を纏いながら停止した。ミサトはメールで彼に連絡したが未だに返事はない。忙しいのだろうか、電話しようか、そんなことを考えながら列車に乗り込んだ。
ミサトは二年制の専門学校を卒業後、兼ねてからの夢であり憧れでもあるグラフィックデザインを扱っている会社に新卒で入社した。が、憧れは理解から最も遠い感情ということを思い知らされる。華やかに見えた業界も、実は泥臭く、下積み期間が長いことを思い知らされた。結局本格的なデザイン業務を行ったのが入社四年目であり、はじめてコンペに参加した。とある企業のブランドキャラクターをデザインするもので、ミサトは今までの苦悩と努力をそこにぶつけた。その甲斐あってか、見事にミサトがデザインしたブランドキャラクターが採用されたのである。そこから今までうまくいってなかったことが嘘のように、ミサトが企画デザインしたものが採用されるようになった。社内でも評価が上がり、自信に繋がった。
「ミサト!綺麗になった。輝いてみえる」二年先輩のジュンコがいった。斬新さはないのだが確実なデザインをする。
「ホントですか!?自分では気づかないから」
嘘である。二十七年間脱色したことのない黒髪は、ここ最近、艶やいていると実感している。ぷりっとした肌、唇は、男性に言い寄られる機会も少なくない。
「そういえばさ、今週の土曜暇?知り合いがバーでピアノ弾くんだけど、行かない?」
「いいですね。行きましょう」とミサト。
「ストレス発散がてらにね」
ジュンコに連れて行ってもらったバーでユウタに出会った。不定期に趣味であるピアノを弾き語り、昼間は会社員として働いている。フェミニンさを漂わせる顔立ちに、それに似つかわしい癖っ毛の髪。笑うとくしゃっとした笑顔になる。
「ピアニストの夢は捨ててないんだ」
そう言う彼の眼差しは輝いて見えた。社会の汚れは知っているのだろうが、夢を語るユウタの眼差しは道しるべのない地図と一緒だった。そう、白紙の地図に描くのは自分次第とでもいうように。
どちらが言い寄り、どちらから歩み寄ったのかは定かではない。運命、という言葉を軽々しく使いたくはないが、それに近しい何かがミサトとユウタを見えざる力が引き寄せ、繋げた。
最寄り駅に着いた頃には雨風が強くなった。傘は使いものにならなくなった。ミサトは雨に打たれながら帰宅することになった。落胆は全てを奪いさる力を持っている。
というのも、仕事で自分が生み出したアイディアをよりによって先輩であるジュンコに模倣されたからだ。それにもなに食わぬ顔で。ミサトは絶句とともに、ジュンコに対する信頼は消え失せた。もちろんそこには悔しさもあり、競争社会の成れの果てを思い知った。
涙。
ミサトは自分自身が泣いていることに気づいた。しかし、それは涙なのか雨粒なのかわからない。神経が麻痺し、濡れた身体は心と共に、冷えているような気がした。季節は春であり、冷え込んでいるわけではないのだが。
更新期限が近づいているマンションに辿り着き、所定の手続きをし、ドアを開けた。暗闇ではなく、光があった。
希望の光。
そこで出迎えていたのは、ユウタだった。くしゃっとした笑みを讃えながら。
「ずぶ濡れじゃないか」
穏やかな彼の声がミサトの耳奥を刺激する。
それがスイッチだった。破裂した風船のように合図と気づきは同義だった。ミサトはユウタに抱きついていた。玄関は彼女から滴る水滴の音がメトロノームのように規則的な音を奏でる。
ピチャ、ピチャ。
一定の周期を保つ水滴音が激しさから緩慢になったとき、ユウタが彼女の両頬を両手で包み込み、目線を合わせた。
「泣いているの?」
小首を軽く傾げながらユウタが甘い吐息と共に声をなびかせた。
ミサトは頷くこともできなかった。あまりに純粋でまっさらな瞳に、動き、を失ったからだ。ユウタの繊細な指が彼女の頬から唇に転調し、唇から指が離された刹那、綿毛のような柔らかな唇が重なった。一度、唇が離れ、もう一度、より強く。さらに、強く。
「私の今の心にはどんな曲が似合うかな」
ミサトは震える声で言った。
「もう曲は流れてるよ」とユウタ。
「えっ!?」
「心を打たれるBGMは、ミサトの涙」
意志を持った言葉にミサトはとろっとした目になり、その一瞬を見逃さなかったユウタの精密で綿密な唇が彼女の下唇に触れ溶けた。