まほうつかいといぬ
山下は顔を歪めた。鮮明に覚えている。
教室の中はがらんどうだった。放課後と言えども、空は未だ明るい。抜けるような群青が、瞳を刺して傷つける。
腐敗しそうな床板。傷の付いた木製の机。詰め込まれた教科書。使い古されたノート。黒板に書き込まれた、将来に役立つベンリな公式。こびりついた現実の影。
「言わなきゃいけないことがある」
深刻そうな顔がこの世で一番似合わない男だ、と青葉は思った。
青葉を呼び出したのは山下だった。
大事な話があるから、と言われてから待っていた放課後の教室で、かれこれ三十分が経とうとしていた頃のこと。
彼が漸くその重い口を開いた。
「じつは」
時計の音。緊張が場を支配する。
「じつは、おれ、」
刹那、予感を見た。
赤褐色の嫌な予感を。真実を告げようと震える喉に。知りたくない現実の前に。嫌な予感を見た。だから。
「ここは!」青葉は知らず、叫んでいた。
「ここは、海って。君が、そうだと言ったから。だから」
ああ。山下が絶望したように唇を噛み締めた。唇が鬱血するのが見えた。
彼にも血が流れているのだと思うと、人間臭さを感じて、凄まじい違和感を覚えた。
顔がないから美しいニケのヴィーナス。
夢は夢のまま。
終わりはいつも“しあわせに暮らしましたとさ”
「ここは海の中だから」
青い世界。美しくて、さびしい。
いつからせかいは沈んでいた?
「きっと聞こえないよ」
戸惑いがちに開かれた彼の唇。水に阻まれた言葉は届かない。泡沫がそこから吐き出される。小魚がゆらりと宙を泳いだ。濃青の視界で、藻が揺れる。カッターシャツの裾がふわりと浮かぶ。
息がし辛い。
悲しい。
青い世界。
(それでも──アデル、ブルーは)
シルクのような光。深い闇。鯨の影が、窓の外を横切っていく。
彼は口を閉じる。言葉を飲み込む。
代わりに、明るい笑顔を作った。