あなたが好きで…
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その場に居合わせたのは、全くの偶然だった。
朝倉洋介は中学3年生で、部活は既に引退していたが、たまに馴染みの道場へ顔を出しては練習をしていた。
高校へ進学しても、剣道は続けるつもりであったし、何より冬の道場に張り詰める凛とした空気が、洋介はやはり好きだったからだ。
その日も洋介は道場からの帰り道だった。
心地よい疲れと、大気の冷たさが身を引き締めるように感じていた。
今は私服だ。ダッフルコートとマフラーで防寒はしていたが、それでも風は体の芯を冷やそうとしていた。
ふと、いつもの通り道にある公園の横に差し掛かった時、大声で怒鳴る男の声が聞こえた。

「いい加減にしろよてめー!」

何事かと思った。
夜の静寂を壊すその無粋な声に、ただならぬ雰囲気を感じ取った。その現場に興味が湧いたのは、稽古上がりでまだ気分が昂ぶっていたからかもしれない。
担いでいた竹刀袋の中身を確認するように抱え直し、声のする方へ足を向けた。
現場はすぐそこであった。
2人の男が、自分と同じ中学の女生徒の手を掴んで、今まさに何処かへ連れて行こうとしているところだった。

あれは……たしか、新井澪?

クラスは一緒になったことはないが、選択授業で一緒になったことはある。話もしたことはないが、何故か洋介は澪がよく目についた為、覚えていた。多分、澪はそんな洋介のことなど覚えてはいないだろうが。
澪は、ひどく怯えた様子で健気にささやかな抵抗をしていた。

「なにしてる」

考えるより先に、体が動いた。
男たちの進行を塞ぐように仁王立ちで立っていた。

俺が何してるんだよ。

自問自答するが、答えは出ない。
いま、少し後悔していた。胸が鼓動を打っている。試合でも感じたことがない緊張と、不安が洋介を包んでいた。

「なんだお前」

男の1人が聞く。そんな事はこっちが聞きたかった。なんで考えもなくここに立っているのか、自分でも驚いているくらいだ。

「男に興味はねーんだよ。さっさとどっか行けよ」

舌打ちしながら鬱陶しそうに言った。
しかし、洋介は無視する。見つめる先は一人の少女。
彼女は怯えた目で、縋るような目で、本当に、本当に助けて欲しそうな目で、洋介を見つめていた。

参った。
そんな目をされたら、逃げられないじゃないか。
そんな目の女の子を、見捨てられないじゃないか。
こんな女の子に悪いことをしようとする奴らを、許せないじゃないか!

ふ、と口角が上がる。
笑っているわけではなかった。勝てるかは分からない。もしかすると怪我もするかもしれない。高校への進学も、取り消されるかもしれない。

でも、こいつらは許せない。

洋介は初めて、自分の一面に気付いた。
人の意思を捻じ曲げて、自分の快楽の為に好き勝手する奴が、洋介は反吐が出るほど嫌いだった。

「なに笑ってんだコラ!」

1人がこちらに詰め寄り、胸倉を掴んだ。よほど頭に来ているらしい。自分の予定を崩されて怒るなんて、随分大人気ないなと思うほど、洋介の頭は冴え渡っていた。

「グッ!……」

無様な声を上げ、苦しそうに腹を抑える男。そんな姿を洋介は冷静に見つめていた。

得物を持つ人間相手に、距離を詰めるなんて、バカな奴だ。

洋介は静かにそう思った。
担いでいた竹刀で男の鳩尾を強かに突いただけだ。硬い柄頭は、さぞ痛かったことだろう。
男が後ずさり、距離を取る。解放された洋介は、襟を直し一息ついた。
そして、場を改めて見渡す。1人はそこで苦しそうにうずくまっている。もう1人は澪を逃がさないようにしながら、こちらを憎々しげに見つめていた。

一対一か……。

洋介は竹刀袋の結いを解いた。
そして、竹刀をゆっくりと取り出し、正眼に構えた。愛刀、と言うには気取りすぎだが、小さい時から剣道に親しんできた洋介にとって、これは吸い付くように手にしっくりきた。

「クソ!ガキが!」

腹を抑えていた男が、よろめきながら立ち上がる。頭に完全に血が上っているらしい。無駄に猛々しい叫びを上げながら、拳を振りかぶる。
が……

「胴っ!」

脇が甘い。

腕を振り上げた分、空いた脇腹は、狙ってくださいと言わんばかりにその存在を主張していた。あとは、そこに正確に打ち込むだけだ。何度も何度も稽古してきた事だ。それほど難しくはなかった。

「いてぇ!」

男がまたうずくまる。
しばらくはミミズ腫れで風呂に入るのも苦しむはずだ。

まずは、1人。

もう1人の方へ向き直す。竹刀はやはり、正眼に構える。
すると、もう1人の男は、どこから取り出したのか、ナイフをこちらに向けていた。

「調子に乗るなよガキ!」

さて困った。

と洋介は思った。
相変わらず男は澪を捕まえたままだ。動きが制限されている分、奴に竹刀を叩き込むのはさほど難しくはないだろうが、彼女にナイフで怪我をさせては元も子もない。それに距離も多少ある。悠長に構えてはいられない。

さて……どうするか?

そう思うより先に、洋介は動いていた。

「小手ぇ!」

左足に全ての力を込めて、一足に跳躍する。まっすぐ自分に向かってくる相手には、遠近感が狂う事を洋介は経験で知っていた。
あとは、突き出された腕に、竹刀を当てるだけだ。剣を上段に振りかぶり、稲妻のように振り下ろした。
渇いた音が辺りにこだまする。激痛に堪らずナイフを落とす男は、彼女を抑えていた手を離し、自らの手を庇っていた。

「どけっ!」

声を張り上げる。
硬直していた澪は、ハッと我に帰り、崩れるように横に逃げた。
その瞬間を見逃さない。
一気に間合いを詰める。

試合だとこううまくはいかないな。

そんな事を考えながら、洋介は渾身の一振りを叩き込んだ。

「面っ!」

激しい一撃が男の頭を捉える。
防具もつけていない相手だ。きっと脳震盪くらいはするだろう。
案の定、男はその場で呻き声を上げながら崩れ落ちた。

「来い!」

これは試合ではない。残心なんかしていられない。
洋介は、怯えたままの澪の手を掴むと、一目散に走り出した。
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