バターリッチ・フィアンセ
あれよあれよという間に腰を引き寄せられ、昼間のパン屋で何をする気なの……!と、私が平手打ちの準備をしていた時だった。
カラン、と店のドアに取り付けられたベルの音がして、彼は私から素早く身体を離した。
「――いらっしゃいませ」
そして先程とは違う、爽やかな笑顔を客の女性に向けた。
……何よ、その変わり身の早さ。
「こんにちは、いつものあるかしら?」
「はい、毎度ありがとうございます」
入ってきた40代くらいの女性は、城戸さんの笑顔を見るなり頬を緩ませ、食パンの棚に手を伸ばしながら世間話を始めた。
「――夏休みって本当に憂鬱。毎日息子が家にいて、変な時間に起きてくるから何を食べさせるか考えるのも大変で」
「お母さんにとったらそうですよね。でも、そうやって悩みながらも美味しいもの作ってくれる母親がいて、息子さんが羨ましいです。俺にはもういないんで」
……城戸さんも、お母様が?
少し離れた場所から彼の横顔を見つめていた私は、それが少し寂しそうなものに見えて小さく胸を痛めた。
「そうだったわね、ごめんなさい。でも、きっと素敵なお母さんだったんでしょうね。じゃなきゃこんな優しい子に育たないもの」
「おだてても安くなりませんよ?」
「ふふ、わかってるわよ」
会話をしながら女性の持っていたトレーをさりげなく自分の手に移動させ、レジに運ぶ城戸さんからは、さっきの寂しげな表情はもう消えていた。