バターリッチ・フィアンセ
○店名の由来
-side 城戸昴-
少し眠ってから出て行こうと思っていたのに、腕の中で眠る織絵の熱を、安らかな寝息をできるだけ長く感じていたくて、結局一睡もできなかった。
緩いパーマのかかった栗色の髪、頬に影を落とすほどに長い人形のような睫毛、ふっくりと艶やかな唇、きめ細やかな白い頬……
そのすべてが愛しくて、ずっと見ていても飽きることなんてない。
これが、人を好きになるってことなんだな……
この恋が終わるまであとわずかなのに、織絵と出逢わなければよかったとは思わない。
本当なら手放したくない。
二人だけで生きられる世界があるなら、俺は間違いなく彼女を連れて行く。
だけど……織絵には、他の奴と幸せになる権利がある。
歪んだ目的で自分に近付き、何度も傷つけた男をわざわざ選ぶ必要なんてないんだ。
『あなたを、愛してるから……』
――俺は、織絵にそんな風に思われて幸せだった。
その思い出さえあれば、この先何があってもきっと生きていける。
織絵にもらった純粋な想いだけを抱き締めて、それを支えにするから。
「そろそろ、行く、な……」
最後にキスをしようか迷って、けれど自分の決心が鈍るのが怖くて、織絵の柔らかな髪を撫でるだけに留めておいた。
物音を立てないようにロフトから降り、最低限の荷物だけまとめると、コピー用紙を一枚ひっぱり出してきて、店先に貼り出すための文章を考える。
“本日をもって、閉店”――それが一番わかりやすいし、織絵や常連の客たちに期待を持たせなくて済むのに、油性マジックを持った手は、どうしてもそれを書くのを拒否した。