バターリッチ・フィアンセ
――それでも。
いざ母が最期を迎えると、そんなどこの誰かもわからない男への怒りよりも、底なしに深い悲しみと、この世に独りになってしまったような寂しさが俺を襲った。
救命センターでの喧騒がうそみたいに静かな、ひんやりと冷たい霊安室の空気。
そこで俺はおそるおそる、目の前で眠ったように横たわる母に手を伸ばし、まだ生きてるみたいな色をしたその手に触れる。
それは思っていたよりもずっと冷たく、そして柔らかな感触も失われてきていて、俺はこみ上げてくる涙をどうにも抑えきれなくなった。
『……なんで……冷てーんだよ……』
母の傍らに跪き、小さな手を温めるように、両手でぎゅっと握り直す。
昨日は握り返してくれたのに、今の母の手には何の意思もない。
たったひと晩で失われてしまったあのあたたかさが、恋しくてたまらない。
いくら噛み殺そうとしても漏れてくる嗚咽が、ふたりきりの部屋に響いた。
『俺……これから、どうしたら……っ』
今まで笑ってられたのは、将来の目標を見つけられたのは、いつもいつも隣で母が微笑んでくれていたから。
その笑顔をこれから先も守りたくて、だからパン職人になろうって……
『noix……その看板掲げたって、母さんが、見てくれないんじゃ……』
俺が店を持ったら、一番の客になってもらって。
きっとどんなパンでも食わせてやると言っても、くるみパンを欲しがるんだろうなんて……
そんなささやかな幸せをひとりでよく妄想しては、将来のために努力する自分の活力に繋げていたのに。