バターリッチ・フィアンセ
そんなやり取りから今日この屋敷に足を運ぶこととなった俺だが、パンを作っている間中、同じ建物の中に織絵がいると思うと胸は激しくかき乱されていた。
しかも、織絵は俺のせいで傷つき、食事すら喉を通らない状態。
そんな彼女を見舞ってやることもせずに、約束通りパンだけ焼いて帰る自分はどうしようもなく臆病な男だと思う。
本当は、心配で心配でたまらないのに、顔を見てしまえば必死で抑えてたもんが全部溢れてしまう気がして、こうしてコソコソと去るしかないなんてな……
大きな金属製の門に手を掛け、ずっしりと重いそれをゆっくり開いて外に出る。
織絵のいる空間から抜け出せたことで緊張の糸が緩み、小さく息を付くと、俺はまたあのぼろアパートに帰るために顔を上げた。
すると――――
「店長さん!」
三条家の前を横切るように伸びた道路の端から、そんな叫び声がした。
少し前までは自分もそう呼ばれていたから、耳だけで少し反応しつつも、それを無視して反対方向へ歩き出す。
店長と呼ばれる人なんて、俺以外にもたくさんいる。
だいいち俺はもう店を閉めた身だ。無責任に突然、誰に何の連絡もしないまま――。
「店長さん!」
けれど背後で声を張り上げる女性の声は次第に近づいてきて、もしかしたら自分のことかもしれないという思いが高まる。
もしもそうだったら、店を閉めた理由をなんて説明しよう。
その場しのぎの嘘を考えようとしても上手い理由が思いつかず、このまま逃げてしまおうかと歩くスピードを速めたときだった。
今度は大量の足音が前方から近づいてきて、俺はその信じられない光景に思わず足を止めてしまった。