バターリッチ・フィアンセ
くるりと後ろを振り返る前に、俺の腕が誰かの手によってぐっと引かれた。
思わず体のバランスを崩したが、なんとか立て直して顔を上げ、そこに居る人物の姿を瞳に映すと。
いつまでも俺の脳裏から消えてくれない、ふわりとパーマがかった栗色の髪に、大きな瞳。
甘いキスの記憶を呼び覚まさせる、どんな時もつややかで血色のいい唇が、目の前にあった。
「……織、――――」
「昴さん、逃げますよ!」
俺が名を呼ぶ前に、大声でそう言った織絵。
彼女は俺の腕をぱっと離すと、騒がしい常連客たちを押し出すように、両手を使って重い門を閉じてしまった。
「なにするのよ!」
「この泥棒猫―!」
「私たちのnoixと店長さんを返して!」
それでもぎゃーぎゃーと騒ぐ黄色い声の群れに耳を塞ぎたい気持ちになっていると、織絵が俺の手を取って言う。
「さ、昴さん。こっち!」
「――いや、ちょっと、待てって……」
「いやです、待ちません」
いやです……って。俺は一体どうしたらいいんだ……
ずんずんと庭を進んでいく織絵は、華奢な彼女のどこにこんな力が……と思うほどに、俺の手を堅く握って離さない。