バターリッチ・フィアンセ

泣きそうな気持で彼を見つめていると、扉の奥から「すいませーん」という声が聞こえた。

……そうだ、向こうにはお客さんが居たんだった。


「俺、あっち行ってくるから織絵は……」

「な、何でもします。床を片づけますか? それとも昴さんの隣で袋詰めを――」

「……もういい。とりあえず、何も触るな」

「そんな、私にも何か手伝わせて下さい!」


必死の懇願もむなしく、昴さんは私に背を向け扉の向こうへ消えてしまった。


……諦められてしまったのかな。私があまりに何もできないから。

そう思うと目の奥が熱くなってきて、思わず下唇を噛んだ。


“パンが好き”――その気持ちだけで、飛び込んでもいい世界じゃなかったのかもしれない。

こんなに暑くて、危険で、体力が要る仕事だなんて思わなかった。


……お見合いの時に、昴さんが言っていた台詞が脳裏をかすめる。


『仕事のきつさとか俺自身に嫌気がさしたら結婚の話は白紙にすればいい』


確かに仕事はきつい。けれど嫌気がさしたわけじゃない。もう少し、頑張ってみたい。

だけど……“私が”ではなくて、彼の方こそ私に嫌気がさしたんじゃないかと思えて、とてつもなく不安になる。


彼に恋愛感情があるわけではないけれど、このまま終わってしまうのは何故だか悲しい。

運命と言ったら少しロマンチックすぎるけれど、あの履歴書を見たときから、昴さんには何か特別な縁を感じるのだ。


大勢の主婦の前で恥をかかされても、自分の不甲斐なさを思い知らされても、簡単に諦めたくないと思う、不思議な引力が彼にはある。


昴さんがここへ戻ってきたら、何かやらせてくださいともう一度食い下がってみよう。

――お嬢様にだって、根性あるんだからね。


私は泣きそうだった自分を胸の奥へ押し込めて、そう決意した。


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