バターリッチ・フィアンセ
「ここから逃げ出す相談?」
穏やかな口調が、逆に怖いと思った。何も答えられずにいる私に、彼は一歩一歩近づいてくる。
「――きゃ!」
ふいに側頭部に差し込まれた手が私の耳を撫で、くすぐったさから思わず身を引いた私。
けれど大きな彼の手も一緒についてきて、頬に添えられた手の親指が、今度は私の下唇をゆっくりなぞった。
「悪いけど……織絵を家に帰す気はないよ。長い間ずっと待ってたんだ、この機会を……」
……夜の闇のせいだと思いたい。
昴さんの薄茶色の瞳に、狂気じみた色が滲んでいるように見えるのは。
ふざけるでもなく、仕事中のような厳しい表情でもなく、暗い海のような静かさの中に、ぞっとするほど綺麗な光が浮かんでいるような彼の瞳が、私を動けなくする。
「長い、間……? 私たちが出会ったのは、ついひと月前のことじゃ……」
かろうじて声は出すことができたから、喉から絞り出すようにそう尋ねると、昴さんは私を嘲笑うように言った。
「織絵はそう思ってればいい。何も知らずに、俺の言うことだけ聞いてれば」
「それ、どういう意――――んっ!?」
突然昴さんに奪われた唇。
驚きで瞬きを繰り返す私をよそに、彼は私を手すりの方へ追い詰めて逃げ場を奪うと、より深いキスを仕掛けてきた。
「す……ばる……さ……」
肩を押し返そうとするけど、その体はびくともしない。
その間にも彼の舌が私の舌を絡め取り、身体の奥がジンと痺れるような感覚が絶えず私を襲うから、そのうち抵抗もできなくなってしまった。