バターリッチ・フィアンセ
不用心すぎると思いつつも、昨夜彼に指示された通り鍵をポストに入れ、建物の外に出るとすでに迎えの車が私を待っていた。
後部座席のドアを開き私をエスコートしてくれるのは、今日もほっとするような穏やかな笑みを浮かべる真澄くんだ。
「お帰りなさいませ、お嬢様。お元気そうで安心しました」
「ただいま。……元気は、そこまでないんだけどね」
真澄くんの顔を見たらすぐに甘えの出てしまった私は、私を乗せてから自分は助手席に座った彼に、早速そんな弱音を吐いた。
「この間の電話で話していたことで……何か嫌な思いをされましたか?」
運転手もいるから、少し話をぼかしてくれる真澄くん。
その気遣いをありがたく思いながら、私は目を閉じて首を横に振った。
「そうじゃないの……何か、もっと基本的なことが私たちには足りないのよね。だから、結局あの晩は何もなかったわ。
今日だって、彼がどこで何をしているのかも知らないの。おかしいわよね……私、婚約者なのに」
ひと息にそこまで話すと、私はシートに深く身を沈めて窓の方に視線を移した。
夏の日射しを反射してきらめく街路樹の緑が眩しくて、いやに目にしみる。
「織絵お嬢様……到着したら、ゆっくり話を聞きます。どうか全部吐き出して、楽になって下さい。お嬢様の好きなお茶もお菓子も、すぐに用意しますので」
「うん……ありがとう」
真澄くんと話していると、やっぱり癒される。それに、車の冷房がとても心地いい。
noixの厨房や、昴さんの部屋……特にロフトは、やっぱり私には暑すぎたみたい。
たった数日暮らしただけなのに、今こうして涼しい空間に居ると、たまっていた疲れが一気に出てきた気がする。
私が、昴さんに惹かれはじめたのも、あの暑い部屋で思考が鈍ったせい?
……きっと、違うわ。
あの部屋で見せる、彼の色んな表情が、私の心を揺さぶるの。
男の人に対して、こんな強い感情を抱くのは、生まれて初めて――――。