バターリッチ・フィアンセ

不用心すぎると思いつつも、昨夜彼に指示された通り鍵をポストに入れ、建物の外に出るとすでに迎えの車が私を待っていた。

後部座席のドアを開き私をエスコートしてくれるのは、今日もほっとするような穏やかな笑みを浮かべる真澄くんだ。


「お帰りなさいませ、お嬢様。お元気そうで安心しました」

「ただいま。……元気は、そこまでないんだけどね」


真澄くんの顔を見たらすぐに甘えの出てしまった私は、私を乗せてから自分は助手席に座った彼に、早速そんな弱音を吐いた。


「この間の電話で話していたことで……何か嫌な思いをされましたか?」


運転手もいるから、少し話をぼかしてくれる真澄くん。

その気遣いをありがたく思いながら、私は目を閉じて首を横に振った。


「そうじゃないの……何か、もっと基本的なことが私たちには足りないのよね。だから、結局あの晩は何もなかったわ。
今日だって、彼がどこで何をしているのかも知らないの。おかしいわよね……私、婚約者なのに」


ひと息にそこまで話すと、私はシートに深く身を沈めて窓の方に視線を移した。

夏の日射しを反射してきらめく街路樹の緑が眩しくて、いやに目にしみる。


「織絵お嬢様……到着したら、ゆっくり話を聞きます。どうか全部吐き出して、楽になって下さい。お嬢様の好きなお茶もお菓子も、すぐに用意しますので」

「うん……ありがとう」


真澄くんと話していると、やっぱり癒される。それに、車の冷房がとても心地いい。


noixの厨房や、昴さんの部屋……特にロフトは、やっぱり私には暑すぎたみたい。

たった数日暮らしただけなのに、今こうして涼しい空間に居ると、たまっていた疲れが一気に出てきた気がする。


私が、昴さんに惹かれはじめたのも、あの暑い部屋で思考が鈍ったせい?


……きっと、違うわ。

あの部屋で見せる、彼の色んな表情が、私の心を揺さぶるの。


男の人に対して、こんな強い感情を抱くのは、生まれて初めて――――。



< 65 / 222 >

この作品をシェア

pagetop