バターリッチ・フィアンセ
「織絵」
俺は厨房から店内に続く扉の、ガラスの部分を一生懸命拭いている彼女の背後に近付いた。
「なんでしょう? あ、そろそろ仕込み開始ですか? だったらすぐ片づけますね」
「いや、そうじゃなくて……」
振り返った織絵を、俺は自分の胸に抱き寄せた。
「す、昴……さん?」
偽りの愛を信じ込ませるように強く腕に力を込め、けれど彼女の甘い香りに自分が酔わないよう、冷めた気持ちを保って、口からは逆の言葉を吐く。
「……最近、頑張ってるよな、織絵。正直、お嬢様って理由で仕事のことはあまり期待してなかったけど、結構助かってる。……ありがとな」
「そんな……私、全然たいしたお手伝いできてないのに……」
俺の胸の中で、謙虚に首を横に振る織絵。
でも、俺の言葉が嬉しいんだろう、頬から耳にかけて、ほんのり紅く染まっている。
……さて、トドメといきますか。
「なんか、織絵が厨房(ココ)にいるのが当たり前になってきたっていうか……
織絵が居てくれると、どんなに忙しくても心が安らぐんだ」
「昴さん……」
瞳を潤ませて俺を見る彼女があまりに綺麗で、罪悪感が芽生えそうになったけど、それを慌てて踏み潰した俺はなおも甘い言葉をつづけた。
「夏休み、あっち行ったらさ……頂戴? 織絵の全部」
――そして俺の虜になって。
その方が、傷つけやすいから。
悪魔みたいな心の声が彼女に聞こえるはずもなく、一層顔を赤くした彼女は小さく頷いた。
これでもう、完全に堕ちただろう。何も知らないこの天使は、俺の手の中に。
織絵の顎を引き上げてキスをする寸前、俺はほんの少し口角を上げて笑った。