コンプリケイテッド 準備編-東京都在住 早希さん(24)の事情-
東京都在住 早希さん(24)の事情
土曜日 AM7:00 新宿
晴れ渡り、週末の始まりを知らせる爽やかな青空。
太陽の穏やかな光で彼女は睡眠から現実へ引き戻された。
セミダブルと言うには少し小ぶりなベッドにあったはずの温もりはもうない。
彼女の隣にはポッカリと一人分のスペースが空いていて、彼女の心を反映したようだった。
ため息をひとつついて、彼女は気だるさを蹴散らすように起き上がった。
そしていつもと同じようにベッドサイドにあるナイトテーブルに目をやった。
そこには、このホテルのロゴが入っているノートパッドがあり、彼女宛の走り書きが残されていた。
(ごめん、先に帰らなきゃいけなくなった。来週の早希の誕生日を祝おうって話してたのに、ごめんね。この埋め合わせは、後日。 悠一)
悠一と一緒に泊まって次の日まで一緒にいれたことなんて、あっただろうか。早希は思い出せなかった。そんな期待はしてはいない。
だが、いつも悠一は早希に謝辞のメモを残して帰っていった。それは彼の誠意なのか、自己満足なのか分からない。ただ、早希にとってみれば自分が蔑ろにされているわけではないという安堵があったのは事実だ。
このメモに安堵を覚えている時点で、悠一の掌で転がされているのは必至で、この不毛な関係をやめられない自分が、弱く馬鹿馬鹿しいと思っていた。
恋愛なんてどうでもいいと思っていた。
ただ、許してくれる人が欲しかった。
何か罪を犯したわけじゃないけれど、ただ思っていた。ここにいることを許してくれる人が欲しいと。
悠一とはどちらともなく一緒にいるようになった。彼と一緒にいる時は何もかも解放できた。
でも悠一には帰るべき場所があった。
早希のものになる人ではなかった。
もちろん自分がいけないことをしているのは分かっていた。
そろそろ辞めどきなのも分かっていた。
だが、その一歩を踏み出すことができなかった。
そんなことを考えながら、早希は立ち上がって備え付けのポットのスイッチを入れコーヒーの準備をした。
お湯が湧き上がる音が響き始めた頃、早希は手元のスマホを見つめていた。
そこからはショパンのノクターン 第20番 嬰ハ短調 遺作が流れ、
画面の中には漆黒の衣装を身に纏った男が氷上とは思えぬフットワークで、エッジを自在に操りクルクルと舞っていた。
「よーちゃんは本当に癒しだわ。」
よーちゃんの一挙一動を見つめる毎に、早希の心の中にあった鉛のような感情が、幾分和らいで行くのが分かった。
「よーちゃんは正義だね本当に。あー早くシーズンインしないかなぁ。生で見たいよ早く。」
よーちゃんというのは、日本の男子フィギュアスケートの第一人者、桐島翼(きりしま よく)選手の事だ。
翼はその端正なルックスと、口巧者な面がメディアにフィーチャーされ、“よーちゃん”と呼ばれている、国民的アスリートだ。
成績も優秀で、オリンピックの入賞経験もあり、世界選手権でも三度メダルを取ったことのある逸材である。
早希は子供の頃からフィギュアスケートの大ファンで、翼がシニアに参戦してからは、一推しで応援している。
早希にとって、翼のスケートは人生のカンフル剤ともいえる。思い悩んだり、どうしても前向きになれない時は、必ず翼のスケートを見て活力にしている。
今日清々しい気分でホテルを後にできる為に、目覚ましのコーヒーと翼のスケートが早希には必要だった。
翼が観客へプリエのポーズと共に頭を下げた頃、部屋中にコーヒーの香りが広がり、
早希は窓際に腰掛けコーヒーをゆっくり飲み込んだ。
「いつまで続くんだろ。この日常。」
自問自答してみても、答えは無い。早希の志次第なのは分かっているからだ。
でも問わずにはいられなかった。
カップに入ったコーヒーを全部飲みきると、両手を天井へ突き上げ、精一杯身体を伸ばし深呼吸をした。
「考えるのは辞めよう。どうせ覚悟なんてできないんだし。」
早希は自分に言い聞かせ、バスルームへ向かった。とりあえず面倒な事を考えるのは辞めたかった。逃げていることが心地よかった。それが今を生きることに目を逸らしてしまっていたとしても。
(人生を精一杯生きる)
早希が、その本当の意味を知ることになるのは、もう少し先のこと。
晴れ渡り、週末の始まりを知らせる爽やかな青空。
太陽の穏やかな光で彼女は睡眠から現実へ引き戻された。
セミダブルと言うには少し小ぶりなベッドにあったはずの温もりはもうない。
彼女の隣にはポッカリと一人分のスペースが空いていて、彼女の心を反映したようだった。
ため息をひとつついて、彼女は気だるさを蹴散らすように起き上がった。
そしていつもと同じようにベッドサイドにあるナイトテーブルに目をやった。
そこには、このホテルのロゴが入っているノートパッドがあり、彼女宛の走り書きが残されていた。
(ごめん、先に帰らなきゃいけなくなった。来週の早希の誕生日を祝おうって話してたのに、ごめんね。この埋め合わせは、後日。 悠一)
悠一と一緒に泊まって次の日まで一緒にいれたことなんて、あっただろうか。早希は思い出せなかった。そんな期待はしてはいない。
だが、いつも悠一は早希に謝辞のメモを残して帰っていった。それは彼の誠意なのか、自己満足なのか分からない。ただ、早希にとってみれば自分が蔑ろにされているわけではないという安堵があったのは事実だ。
このメモに安堵を覚えている時点で、悠一の掌で転がされているのは必至で、この不毛な関係をやめられない自分が、弱く馬鹿馬鹿しいと思っていた。
恋愛なんてどうでもいいと思っていた。
ただ、許してくれる人が欲しかった。
何か罪を犯したわけじゃないけれど、ただ思っていた。ここにいることを許してくれる人が欲しいと。
悠一とはどちらともなく一緒にいるようになった。彼と一緒にいる時は何もかも解放できた。
でも悠一には帰るべき場所があった。
早希のものになる人ではなかった。
もちろん自分がいけないことをしているのは分かっていた。
そろそろ辞めどきなのも分かっていた。
だが、その一歩を踏み出すことができなかった。
そんなことを考えながら、早希は立ち上がって備え付けのポットのスイッチを入れコーヒーの準備をした。
お湯が湧き上がる音が響き始めた頃、早希は手元のスマホを見つめていた。
そこからはショパンのノクターン 第20番 嬰ハ短調 遺作が流れ、
画面の中には漆黒の衣装を身に纏った男が氷上とは思えぬフットワークで、エッジを自在に操りクルクルと舞っていた。
「よーちゃんは本当に癒しだわ。」
よーちゃんの一挙一動を見つめる毎に、早希の心の中にあった鉛のような感情が、幾分和らいで行くのが分かった。
「よーちゃんは正義だね本当に。あー早くシーズンインしないかなぁ。生で見たいよ早く。」
よーちゃんというのは、日本の男子フィギュアスケートの第一人者、桐島翼(きりしま よく)選手の事だ。
翼はその端正なルックスと、口巧者な面がメディアにフィーチャーされ、“よーちゃん”と呼ばれている、国民的アスリートだ。
成績も優秀で、オリンピックの入賞経験もあり、世界選手権でも三度メダルを取ったことのある逸材である。
早希は子供の頃からフィギュアスケートの大ファンで、翼がシニアに参戦してからは、一推しで応援している。
早希にとって、翼のスケートは人生のカンフル剤ともいえる。思い悩んだり、どうしても前向きになれない時は、必ず翼のスケートを見て活力にしている。
今日清々しい気分でホテルを後にできる為に、目覚ましのコーヒーと翼のスケートが早希には必要だった。
翼が観客へプリエのポーズと共に頭を下げた頃、部屋中にコーヒーの香りが広がり、
早希は窓際に腰掛けコーヒーをゆっくり飲み込んだ。
「いつまで続くんだろ。この日常。」
自問自答してみても、答えは無い。早希の志次第なのは分かっているからだ。
でも問わずにはいられなかった。
カップに入ったコーヒーを全部飲みきると、両手を天井へ突き上げ、精一杯身体を伸ばし深呼吸をした。
「考えるのは辞めよう。どうせ覚悟なんてできないんだし。」
早希は自分に言い聞かせ、バスルームへ向かった。とりあえず面倒な事を考えるのは辞めたかった。逃げていることが心地よかった。それが今を生きることに目を逸らしてしまっていたとしても。
(人生を精一杯生きる)
早希が、その本当の意味を知ることになるのは、もう少し先のこと。