老いたる源氏

冷泉院1

庵の中央、釈迦像の前に端座して作務衣姿の
源氏が読経しています。

「妙法蓮華経方便品第二 爾時世尊 従三昧 安詳而起
告舎利弗 諸佛智慧 甚深無量 其智慧門 難解難入
一切声聞 僻支佛 所不能知 所以者何 佛曾親近
百千萬億 無数諸佛 儘行諸佛 無量道法 勇猛精進
名稍普門 成就甚深 未曽有法 隋宜諸説 意趣難解
舎利弗 吾従成仏己來 ・・・・・・・」

まき割りをしていた作務衣姿の惟光が駆け込んできます。
「どなたかこちらにお見えのようです。あの牛車は
冷泉院と思われます」

源氏は読経をやめて、
「ふむ、息子か。今まではこうして気楽には会えなかったものな。
十日とあけずにやってくる」
源氏は明るい入り口戸のほうに顔を向けまんざらでもなさそうに微笑みます。
もうほとんど目は見えません。耳も遠くなってきました。

惟光は冷泉院を迎えに行きます。賄(まかない)の老婆が
源氏の手を取り仏壇前から居間の板の間を越えて寝の間にはいります。
老婆は源氏を立たせたまま作務衣を直綴に着替えさせます。

老婆は前の賄が病気のために里帰りした後にこの庵にやってきました。
どうもこの出家僧が源氏であることは知らないようです。
声もしわがれ浮世にはまるで興味がないようですが
耳はよく聞こえるようです。

「そこもとは名を何と申す?いつもああとかおおとかでは呼びつらいよの」
わざとらしいしわがれ声で老婆は答えます。
「おいちともうします」
「おいち?のちの世にどこかで聞いたような名じゃのう、お・い・ち」

お市は手際よく作務衣を脱がせて練生絹(ねりすずし)の直綴(じきとつ)に着替えさせます。
「朝の若竹はうまかった、あれは?」
「朝掘りの筍で地中深くこの辺りでとれたもののようです」
しわがれ声は聞きづらく源氏も思わず顔をそむけてしまいます。

着替えも終わりお市は源氏の手を取って居間の板の間の上敷きに座らせます。
お膳が二つ用意してあります。胡坐に座りなおしながら源氏は大きく息ををします。
そこに湯気たつ若竹が運ばれてきました。源氏は合掌してすぐ手を付けます。

「おおこの香りじゃ。この香りは花散里、もしやそなたは花散里?いや
それはありえない。その声と手にするそなたのカサカサの手。花散里は
風そよぐ笹の音、手指は春竹の肌のよう。出家してからは会えもせん。
そうか誰が湯がこうが若竹はこの香りなのじゃ。煩悩即煩悩まだまだじゃ」

お市はぷっと吹き出しながらおくどへもどります。そこへ惟光が冷泉院を
案内して入ってきます。
< 5 / 65 >

この作品をシェア

pagetop