チェックメイト
☆☆☆☆☆
巨大な迷路を彷彿とさせる都心部の駅構内で偶然と偶然が重なり合い、運命、という二文字が表出するのかもしれない、とジュンコは立ち止まる。というのも声を掛けられたのだ。
「懐かしい、匂い。ちょっと待って!」
ちょっと待って、と呼び止められたのは何年ぶりだろうか、と彼女は記憶の上昇気流に乗ろうとするが、すぐに低空飛行に切り替えた。今年三十三歳になり、男、という一単語からは大きくかけ離れている。肌の張りは勢いを失い、一人で行動することが増えた。周囲は結婚し子供までいる。完全に出遅れた、といわざるをえない。大手企業に入社し、精力的に仕事に時間を費やしてきたツケは今さらながら大きい。
「ジュンコ、仕事に精力的になるのもいいけど、女は男つくって、やわらかくならないと」
同期で同期入社の有望株をGETし波に乗っているマナミの言葉が頭をよぎる。
社会の第一線で生活を余儀なくされると、どうしても性格はきつくなり、それがプライベートにまで雰囲気が出る。最低限、男を繋ぎ止める雰囲気というのが必要なのだろうか。
「ちょっと待ってみましたが」
ああ、言語がおかしい。クライアントとの打ち合わせ、プレゼン時にはありえない論理的思考が麻痺している。言語矯正クリニックに通わないと、そんなのがあればだが。たかだか男に呼び止められたぐらいでなぜこんなにも動揺しているのだろう。
しかし、男はジュンコの言語文法を何事もなかったかのように聞き流しこう言った。
「ジュンコさんだよね」
思考停止。名前を呼ばれた。
「そうですけど。なぜ、名前を?」
「ああ、やっぱり覚えてないか」と男は頬を薬指で掻いている。その仕草が記憶の些細な点を浮かび上がらせた。「もしかして」
「思い出してくれた?」
男は嬉しそうだ。
「マナブ君?」
とか細い声をジュンコは落とした。
「うん、思い出してくれたんだね。久しぶり」
マナブはくしゃっとした笑みをこぼした。童顔なのだろう、まだ二十代として通る清廉な顔立ちは、水のように透き通る安心めいたものを感じさせた。
「よくわかったね!」
「わかるさ、あの頃と全く変わっていない」
「変わったよ。もう、おばさん」
「いや、変わってない」とマナブはジュンコの唇を人差し指で閉じた。周囲の視線が二人に注がれ、喧噪が静寂に変わったように感じた。「匂いが、僕らを引き寄せた」
高校三年のジュンコの日課としてなにより大事にしていたのは、朝のシャワータイムだった。一、二年では朝に弱く、学校についてから化粧をしていたが、それはいかがなものか、と自分を戒める意味をこめた。なにより、髪の毛にシャンプーの匂いを長時間持続させられることに喜びを覚えた。父が化粧品会社に開発担当で、ジュンコの誕生日に、世界にひとつだけのシャンプーを開発してくれたのだ。
だが、クラス内では不評らしい。匂いがきつい、大人ぶるな、とやっかみなのか、嫉妬なのか、あらゆる感情をぶつけてくる。それでも、一人だけ、匂いを褒めてくれたのが、マナブだった。クラスに一人はいるクールな人間。
「いい、匂いだね。ん?」
彼は何か言いたそうだった。しかし、答えは聞けなかった。友達がジュンコを呼び止めたからだ。あの、不可思議なマナブの顔が記憶から浮上した。
「マナブ君、覚えてるかな?」
「覚えてることは」
マナブは苦笑しながら言った。ジュンコは事の次第を話した。
「今、ふと思い出したんだよね」
ああ、とマナブは破顔し、「十年後に馴染むって言おうとしたんだ」と真顔に戻す。
「じゃあ、あのとき聞かなくてよかった」とジュンコは一オクターブ高い声で応対し、「そういえば父が、シャンプーは人を繋げてくれる、とくに父さんが作ったのはな、とか言ってたっけ」と、ジュンコは笑いながら言った。
「でも、ジュンコさんのお父さんが言っていることは真実じゃないかな」
「え?」
とジュンコ。
「僕らは再び出会った。さっきの言葉には続きがあるんだ」とマナブがジュンコに一歩近づいた。「そして、君に惚れてる、って」
「え?」
ジュンコは再度、同じ驚きを発した。
二人は見つめ合う。周囲がざわついてるように感じる。いい匂いだ、とマナブの吐息を感じながら、唇が迫るのを彼女は感じた。
「懐かしい、匂い。ちょっと待って!」
ちょっと待って、と呼び止められたのは何年ぶりだろうか、と彼女は記憶の上昇気流に乗ろうとするが、すぐに低空飛行に切り替えた。今年三十三歳になり、男、という一単語からは大きくかけ離れている。肌の張りは勢いを失い、一人で行動することが増えた。周囲は結婚し子供までいる。完全に出遅れた、といわざるをえない。大手企業に入社し、精力的に仕事に時間を費やしてきたツケは今さらながら大きい。
「ジュンコ、仕事に精力的になるのもいいけど、女は男つくって、やわらかくならないと」
同期で同期入社の有望株をGETし波に乗っているマナミの言葉が頭をよぎる。
社会の第一線で生活を余儀なくされると、どうしても性格はきつくなり、それがプライベートにまで雰囲気が出る。最低限、男を繋ぎ止める雰囲気というのが必要なのだろうか。
「ちょっと待ってみましたが」
ああ、言語がおかしい。クライアントとの打ち合わせ、プレゼン時にはありえない論理的思考が麻痺している。言語矯正クリニックに通わないと、そんなのがあればだが。たかだか男に呼び止められたぐらいでなぜこんなにも動揺しているのだろう。
しかし、男はジュンコの言語文法を何事もなかったかのように聞き流しこう言った。
「ジュンコさんだよね」
思考停止。名前を呼ばれた。
「そうですけど。なぜ、名前を?」
「ああ、やっぱり覚えてないか」と男は頬を薬指で掻いている。その仕草が記憶の些細な点を浮かび上がらせた。「もしかして」
「思い出してくれた?」
男は嬉しそうだ。
「マナブ君?」
とか細い声をジュンコは落とした。
「うん、思い出してくれたんだね。久しぶり」
マナブはくしゃっとした笑みをこぼした。童顔なのだろう、まだ二十代として通る清廉な顔立ちは、水のように透き通る安心めいたものを感じさせた。
「よくわかったね!」
「わかるさ、あの頃と全く変わっていない」
「変わったよ。もう、おばさん」
「いや、変わってない」とマナブはジュンコの唇を人差し指で閉じた。周囲の視線が二人に注がれ、喧噪が静寂に変わったように感じた。「匂いが、僕らを引き寄せた」
高校三年のジュンコの日課としてなにより大事にしていたのは、朝のシャワータイムだった。一、二年では朝に弱く、学校についてから化粧をしていたが、それはいかがなものか、と自分を戒める意味をこめた。なにより、髪の毛にシャンプーの匂いを長時間持続させられることに喜びを覚えた。父が化粧品会社に開発担当で、ジュンコの誕生日に、世界にひとつだけのシャンプーを開発してくれたのだ。
だが、クラス内では不評らしい。匂いがきつい、大人ぶるな、とやっかみなのか、嫉妬なのか、あらゆる感情をぶつけてくる。それでも、一人だけ、匂いを褒めてくれたのが、マナブだった。クラスに一人はいるクールな人間。
「いい、匂いだね。ん?」
彼は何か言いたそうだった。しかし、答えは聞けなかった。友達がジュンコを呼び止めたからだ。あの、不可思議なマナブの顔が記憶から浮上した。
「マナブ君、覚えてるかな?」
「覚えてることは」
マナブは苦笑しながら言った。ジュンコは事の次第を話した。
「今、ふと思い出したんだよね」
ああ、とマナブは破顔し、「十年後に馴染むって言おうとしたんだ」と真顔に戻す。
「じゃあ、あのとき聞かなくてよかった」とジュンコは一オクターブ高い声で応対し、「そういえば父が、シャンプーは人を繋げてくれる、とくに父さんが作ったのはな、とか言ってたっけ」と、ジュンコは笑いながら言った。
「でも、ジュンコさんのお父さんが言っていることは真実じゃないかな」
「え?」
とジュンコ。
「僕らは再び出会った。さっきの言葉には続きがあるんだ」とマナブがジュンコに一歩近づいた。「そして、君に惚れてる、って」
「え?」
ジュンコは再度、同じ驚きを発した。
二人は見つめ合う。周囲がざわついてるように感じる。いい匂いだ、とマナブの吐息を感じながら、唇が迫るのを彼女は感じた。