恋しい人 ~めぐる季節、また君と出逢う2~
1. 古びたホテル
急いた抱き方をする男だ。けれど自分だけ達したそのあとで必ずごめん、と謝りそれから気だるげではあるがもう一度丁寧に駿太郎を愛した。一応は悪いと思っているらしい。正直言って不満が全くないとは言えなかった。駿太郎も20歳の若いさかりだ。同級生、そうは言ってもひとつ自分が年上だと、意識しているのは多分羽田よりも自分の方だった。そのたったひとつの年の差を彼の急いたセ ックスの理由にして「年下の恋人」と思うことで彼のわがままな抱き方を受け入れる。年上、年下、そんなことを思うのは多分自分自身も若いからだ。そう、駿太郎も分っていた。
「出ます」と短く言って電話を切る。こんな所で愛想良くする必要もないけれど、彼にしては随分とぶっきら棒だ。それは羽田の気恥ずかしさやどうしても拭いきれない疚しさがそんなふうにぶっきら棒にさせるのだろうけれど、その声を聞くと駿太郎はいつも少し悲しくなる。安っぽい黄ばんだ壁。我が物顔でベッドだけが大きい。申し訳程度にドレッサーが置いてある。自分たちの愛を肌で確めることは、その場所とか部屋の設えといったものと比例する訳ではもちろんない。それでも、見るとも無しに目を開ければ目に入る薄汚れた天井に、ベッドのヘッドレストの小さな傷やシーツの小さな煙草の焦げ跡に、重ねていく肌がふと冷める瞬間があった。
新宿の街を駅まで歩く。コーヒーショップで軽く食べる時もあるし、そのまま真っ直ぐ帰ることもあった。家に帰れば母親の作った夕ご飯を食べなければならない。その分を少し空けておく。二人とも同じように口にはしないけれどそうしていた。
ともに大学生だった。駿太郎が病欠でやり直した高校二年生からの同級生である羽田裕人(はだ ゆうと)は現役で附属の大学に進学し今は大学三年生で、駿太郎の方は高校で留年した上に浪人していた為まだ大学二年だった。ともに東京近郊の出身で実家住まいだ。羽田はそろそろ就職活動を始めた。中学・高校・大学と私立の一貫校で育った羽田は、育ちの良さを嫌味なく身につけている。明るく素直な性格で、高校生の頃短髪だった髪も当時より長くしているけれど、長すぎない程度に整っていて、服装もいつも優等生らしい爽やかな服を着ていた。それはもしかしたら彼の母親の好みなのかもしれないし、そうしているうちに彼の身についた好みなのかもしれなかったが、どちらにしろ、その髪も服装も、羽田の性格にも雰囲気にも良く似合っていた。
夕暮れた新宿の街はことに忙(せわ)しい。駿太郎は半袖を着て上着を持たずに出てきてしまったことを後悔しながら大きな通りに出て背の高い男性にぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
同時に謝って行き過ぎる。背の高いその男性のほんの一歩後にその男性より頭ひとつ低い男性がいて急に止まった男の背にこつんと頭をぶつけたらしく、背の高い男性はこっちとそっちに謝って笑いながら通りすぎていった。その男性の笑顔の横顔と一歩か半歩後を歩く男性をまるで庇うように人込みに切り込んでいく大きな背中に、駿太郎は、とてもよく知っていた男を思い出した。駿太郎が知っている男の背中はもうほんの少し、─若さ特有の─ 隙だらけのとっつきにくさがあって、今行過ぎた男性よりほんの少し怒り肩だ。
建物の隙間を縫うように吹いた風はもう昼間の暑さを疾うに手放して、季節の移ろいを語るように駿太郎のポロシャツの袖口を撫でた。温かい物を食べよう、ふとそんなことを思う。
「そだ、裕人、今日さ、俺、母親が友達とカラオケ行くから外でメシ喰ってこうと思ってて…」
「そうなの?あ、じゃ、俺もそうしようかな。家に電話する。」
大学生の男子は、アルバイト、サークル、飲み会と忙しく、ご飯の用意なんてしなくてもいいのだろうけれど二人の母親はどちらも簡単なものでも拵えて息子を待つタイプだった。男の子の母親というのはそういうものなのかもしれない。女性の友達が多いわけではないけれど、多分女の子なら自分で作ったりすることもできるからなのか、聞いていると案外放っておかれていたりもする。中学は公立だったけれど思春期まっさかりで女の子と話すタイプではなかったし、高校は男子校だったし、最近女の子と普通に話せるようになって意外に思う事が色々ある。
「どこに行く?何食べたい?」
「んー…中村屋はどう?あそこのカレー食いたいかな。」
よく言えば男らしく強引。こんなとき、決定権を持っているのは大概羽田の方だ。それは駿太郎に大したこだわりもないからだし、年下の同級生達の中に溶け込めない自分を知りながら大らかに受け入れてくれた羽田との昔からの距離感だった。
「あ!でも!!!たまには駿太郎が食べたいもの、言ってよ。」
「え?あぁ、でも、うん、カレーいいじゃない。中村屋のカレーは家のカレーと違うからたまに食べたくなるよね。」
そしてたまにこうして、思い出したように駿太郎を気遣う。「好きになったのは俺の方だからお前には弱い」と、羽田は言うけれど、どうだろうな、と駿太郎は苦笑する。
「駿太郎、か…」
「うん?何?」
「やっと慣れてきたよ。」
そもそもは苗字で「平賀(ひらが)」「羽田(はだ)」と呼び合っていたただの同級生だった二人が、下の名前で呼び合うようになったのには、はっきりとしたきっかけがあった。恋人として付き合うことになった、それがきっかけで、恋人になったんだから下の名前で呼びましょう、そうしましょう、と言って下の名前で呼び合うというのがいかにも羽田らしいと思った。
当時恋人がいた駿太郎に毎日メールを送って来て、いつしかそのメールの最後に「裕人」と名前入るようになっていたことに気づいてはいた。ただの同級生ではない、友達ではない、もう友達に戻る気もない、とそのメールの数々は伝えていたのだし、きっと、駿太郎の心が迷い続けていることも、あるいは、羽田の一途な愛情表現にその心が傾きかけている事も羽田は気づいていて、恋人としての始りの一歩をその署名にしていたのかもしれなかった。
『駿…?』
自分を呼ぶ聞こえる。聞こえるはずもない、こんな雑踏で彼が自分を呼ぶ声をどうして聞くのだろう。羽田が「駿太郎」と呼ぶ声は、少しも彼とは似ていない。それなのに、下の名前で呼びなれていないからなのか、駿太郎は時折、家族以外で、そして幼い日を除いては、彼を初めて下の名前で呼んだ男の声を忘れる事ができないのだった。
「しゅんたろ?」
「あぁ、うん。なんでもない」
駿太郎、の最後の「う」を発音しないその呼びかけが駿太郎はとても好きだ。秋の始り、都会の夜を背にして恋人は優しく目を細めていた。
「出ます」と短く言って電話を切る。こんな所で愛想良くする必要もないけれど、彼にしては随分とぶっきら棒だ。それは羽田の気恥ずかしさやどうしても拭いきれない疚しさがそんなふうにぶっきら棒にさせるのだろうけれど、その声を聞くと駿太郎はいつも少し悲しくなる。安っぽい黄ばんだ壁。我が物顔でベッドだけが大きい。申し訳程度にドレッサーが置いてある。自分たちの愛を肌で確めることは、その場所とか部屋の設えといったものと比例する訳ではもちろんない。それでも、見るとも無しに目を開ければ目に入る薄汚れた天井に、ベッドのヘッドレストの小さな傷やシーツの小さな煙草の焦げ跡に、重ねていく肌がふと冷める瞬間があった。
新宿の街を駅まで歩く。コーヒーショップで軽く食べる時もあるし、そのまま真っ直ぐ帰ることもあった。家に帰れば母親の作った夕ご飯を食べなければならない。その分を少し空けておく。二人とも同じように口にはしないけれどそうしていた。
ともに大学生だった。駿太郎が病欠でやり直した高校二年生からの同級生である羽田裕人(はだ ゆうと)は現役で附属の大学に進学し今は大学三年生で、駿太郎の方は高校で留年した上に浪人していた為まだ大学二年だった。ともに東京近郊の出身で実家住まいだ。羽田はそろそろ就職活動を始めた。中学・高校・大学と私立の一貫校で育った羽田は、育ちの良さを嫌味なく身につけている。明るく素直な性格で、高校生の頃短髪だった髪も当時より長くしているけれど、長すぎない程度に整っていて、服装もいつも優等生らしい爽やかな服を着ていた。それはもしかしたら彼の母親の好みなのかもしれないし、そうしているうちに彼の身についた好みなのかもしれなかったが、どちらにしろ、その髪も服装も、羽田の性格にも雰囲気にも良く似合っていた。
夕暮れた新宿の街はことに忙(せわ)しい。駿太郎は半袖を着て上着を持たずに出てきてしまったことを後悔しながら大きな通りに出て背の高い男性にぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
同時に謝って行き過ぎる。背の高いその男性のほんの一歩後にその男性より頭ひとつ低い男性がいて急に止まった男の背にこつんと頭をぶつけたらしく、背の高い男性はこっちとそっちに謝って笑いながら通りすぎていった。その男性の笑顔の横顔と一歩か半歩後を歩く男性をまるで庇うように人込みに切り込んでいく大きな背中に、駿太郎は、とてもよく知っていた男を思い出した。駿太郎が知っている男の背中はもうほんの少し、─若さ特有の─ 隙だらけのとっつきにくさがあって、今行過ぎた男性よりほんの少し怒り肩だ。
建物の隙間を縫うように吹いた風はもう昼間の暑さを疾うに手放して、季節の移ろいを語るように駿太郎のポロシャツの袖口を撫でた。温かい物を食べよう、ふとそんなことを思う。
「そだ、裕人、今日さ、俺、母親が友達とカラオケ行くから外でメシ喰ってこうと思ってて…」
「そうなの?あ、じゃ、俺もそうしようかな。家に電話する。」
大学生の男子は、アルバイト、サークル、飲み会と忙しく、ご飯の用意なんてしなくてもいいのだろうけれど二人の母親はどちらも簡単なものでも拵えて息子を待つタイプだった。男の子の母親というのはそういうものなのかもしれない。女性の友達が多いわけではないけれど、多分女の子なら自分で作ったりすることもできるからなのか、聞いていると案外放っておかれていたりもする。中学は公立だったけれど思春期まっさかりで女の子と話すタイプではなかったし、高校は男子校だったし、最近女の子と普通に話せるようになって意外に思う事が色々ある。
「どこに行く?何食べたい?」
「んー…中村屋はどう?あそこのカレー食いたいかな。」
よく言えば男らしく強引。こんなとき、決定権を持っているのは大概羽田の方だ。それは駿太郎に大したこだわりもないからだし、年下の同級生達の中に溶け込めない自分を知りながら大らかに受け入れてくれた羽田との昔からの距離感だった。
「あ!でも!!!たまには駿太郎が食べたいもの、言ってよ。」
「え?あぁ、でも、うん、カレーいいじゃない。中村屋のカレーは家のカレーと違うからたまに食べたくなるよね。」
そしてたまにこうして、思い出したように駿太郎を気遣う。「好きになったのは俺の方だからお前には弱い」と、羽田は言うけれど、どうだろうな、と駿太郎は苦笑する。
「駿太郎、か…」
「うん?何?」
「やっと慣れてきたよ。」
そもそもは苗字で「平賀(ひらが)」「羽田(はだ)」と呼び合っていたただの同級生だった二人が、下の名前で呼び合うようになったのには、はっきりとしたきっかけがあった。恋人として付き合うことになった、それがきっかけで、恋人になったんだから下の名前で呼びましょう、そうしましょう、と言って下の名前で呼び合うというのがいかにも羽田らしいと思った。
当時恋人がいた駿太郎に毎日メールを送って来て、いつしかそのメールの最後に「裕人」と名前入るようになっていたことに気づいてはいた。ただの同級生ではない、友達ではない、もう友達に戻る気もない、とそのメールの数々は伝えていたのだし、きっと、駿太郎の心が迷い続けていることも、あるいは、羽田の一途な愛情表現にその心が傾きかけている事も羽田は気づいていて、恋人としての始りの一歩をその署名にしていたのかもしれなかった。
『駿…?』
自分を呼ぶ聞こえる。聞こえるはずもない、こんな雑踏で彼が自分を呼ぶ声をどうして聞くのだろう。羽田が「駿太郎」と呼ぶ声は、少しも彼とは似ていない。それなのに、下の名前で呼びなれていないからなのか、駿太郎は時折、家族以外で、そして幼い日を除いては、彼を初めて下の名前で呼んだ男の声を忘れる事ができないのだった。
「しゅんたろ?」
「あぁ、うん。なんでもない」
駿太郎、の最後の「う」を発音しないその呼びかけが駿太郎はとても好きだ。秋の始り、都会の夜を背にして恋人は優しく目を細めていた。
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