恋しい人 ~めぐる季節、また君と出逢う2~
6.住宅街
大学の図書館で羽田に再会した時、一目では羽田だと気付かなかった。背が高くなった羽田は高校生の頃よりもずっと大人びていた。短髪だった髪も長めになっていて、「平賀」と自分を呼んだその声さえ懐かしいのにどこか違う人のようにも聞こえた。
紅い液体をかき回すティースプーンを摘まんだ手。
柔らかな光の中で笑った羽田の懐かしい笑顔。
「平賀が、ここに入ったって聞いたから、会えるかな、って思ってた。ミステリー研究会。うちの大学にもあるんだけど、こっちの方が楽しそうだったから。」
あの時、羽田はそんなにミステリーが好きだったか?と尋ねたら羽田は小さく笑って言った。
「どうだったかな。」
他人事のように少し困ったみたいな微笑を浮かべて、羽田は頬杖をついていた。懐かしさに目を細めて見飽きずに見つめて、そうしたら、羽田は「あんまり見ないで」と苦笑いをした。
『平賀、やっと…見つけた』
あの時、図書館で彼が呟いた一言の意味に気がついたのは、あれから暫らく経ってからのことだった。
「・・・・図書館で駿太郎を見つける前の事だよ。」
駿太郎の心を読んだように、羽田が切り出した。
住宅街の坂をのんびりと下っていくハイカットのスニーカーは、羽田家の前の道路を折れて幾分かペースを落とした。
「駿太郎のこと、諦めた方がいいのかなあって…正直、そう思ったことがあって。高校卒業してから一年以上経ってたし、そもそも高校時代にすでに2年も片思いしてたんだよ?もうそろそろ潮時なのかもって思ってた。あの子、佐々木さんって言うんだけど、駿太郎と読んでる本が似てて、話しやすくてさ。──あの子がいなかったら、多分、もう少し早めにミステリー研究会にも見切りをつけてたかもしんないし。そしたら、駿太郎にもう一度会うことも出来なかったんだと思う。」
駿太郎は、特にミステリーを好んで読んでいた訳ではないけれど、確かにそんな話をよくしていたのかもしれない。ミステリーは手軽なので、何も読むものがないときには大抵ミステリーを鞄に入れていた。
「今、何読んでるの?」
羽田はよくそんな風に話しかけてくれた。それを取っ掛かりにして二人はいつも他愛もない話を続けた。学校の机。ファーストフードの不安定なプラスチックのテーブル。「詩土仁葦」の背の高いアルミのテーブルとハイチェア。
静かな住宅街の坂道に、スニーカーがアスファルトを蹴る二人の足音だけが聞こえた。曲がり角からいっこ手前の街灯がチラチラと揺れて、時折、パッと消えてはまた点灯した。駿太郎は、隣を歩く羽田の手をそうっと握った。
「誰も見てない」
悪戯っぽく笑ってきゅっと手に力を込めると、羽田は嬉しそうに笑って後(うしろ)を確め、それからキュッと駿太郎の手を握り返した。曲がり角まで来て、駿太郎はそっと手を放した。それからまた、周りの様子を伺ってふたりはそっと手をつないだ。
二人が別々に歩んだ卒業後の2年間に羽田が抱いた想いに、あるいはそれが駿太郎以外の誰かに向けた恋心なのだとしても、駿太郎が何か言えた義理ではないと思う。大学の図書館で羽田に会うまで駿太郎にとって羽田は確かに「思い出」になった人間だった。高校で留年して卒業するまでの二年間、一人でいることも多かったけれど大して孤独感を感じないで居られたのは、何かにつけて明るく楽しげに「平賀ぁ!」と声を掛けてくれる羽田が居たからだ。羽田のその労わりにも似た優しさが、友情だと思ったこともないけれど、それは、友情かどうかだなんて考えたこともなかっただけだ。羽田のその気持ちが友情以上の何かだと、駿太郎は自分が「こっち側」の人間なのに気付く事も無かった。卒業寸前の下校時に、羽田が見せた素直な恋愛感情を、あまりにも唐突過ぎて受け取り損ねた駿太郎に、結局は羽田は友情というオブラートに包み直して大事にどこかへ隠してしまった。だから、駿太郎は、高校生活という思い出の中にそっとしまってあるその羽田との一件をただ懐かしく思い出として愛おしんでいたはずだった。それだけのはずだった。
そして、大学生になった駿太郎は得る事など望みも想像もしない相手を想い始めた。友情を振りかざすようにしてその人の隣に居る自分と自分の恋心を思うとき、駿太郎はいつも羽田を思い出したものだ。
「ねえ」
羽田のハイカットが止まった。曲がり角から小さな光が見えて、駿太郎は手を離して道路の端に除けた。二人の脇を原付バイクが通り過ぎる。
「なに?」
「本当になんでもないよ。佐々木さんとは。」
「そんなこと、考えてないよ。知ってるだろ、俺だっ──」
駿太郎の口を塞いだ羽田の手は温かかった。手を解こうと羽田の手を握ると、羽田はその手を引いてほんの一瞬だけ駿太郎に口づけた。それから通り過ぎた原付バイクの小さくなったテールランプを暫らく見守ったあと、もう一度口づけた。
「好きだよ。」
惜しみなく注がれる羽田の恋心。羽田は駿太郎に回した腕にまたぎゅっと力を込めた。抱かれた腕の中で不自由になった腕をそっと羽田の背中に乗せて、
「うん。俺も。」
と、答えた駿太郎の声は少し掠れていた。
紅い液体をかき回すティースプーンを摘まんだ手。
柔らかな光の中で笑った羽田の懐かしい笑顔。
「平賀が、ここに入ったって聞いたから、会えるかな、って思ってた。ミステリー研究会。うちの大学にもあるんだけど、こっちの方が楽しそうだったから。」
あの時、羽田はそんなにミステリーが好きだったか?と尋ねたら羽田は小さく笑って言った。
「どうだったかな。」
他人事のように少し困ったみたいな微笑を浮かべて、羽田は頬杖をついていた。懐かしさに目を細めて見飽きずに見つめて、そうしたら、羽田は「あんまり見ないで」と苦笑いをした。
『平賀、やっと…見つけた』
あの時、図書館で彼が呟いた一言の意味に気がついたのは、あれから暫らく経ってからのことだった。
「・・・・図書館で駿太郎を見つける前の事だよ。」
駿太郎の心を読んだように、羽田が切り出した。
住宅街の坂をのんびりと下っていくハイカットのスニーカーは、羽田家の前の道路を折れて幾分かペースを落とした。
「駿太郎のこと、諦めた方がいいのかなあって…正直、そう思ったことがあって。高校卒業してから一年以上経ってたし、そもそも高校時代にすでに2年も片思いしてたんだよ?もうそろそろ潮時なのかもって思ってた。あの子、佐々木さんって言うんだけど、駿太郎と読んでる本が似てて、話しやすくてさ。──あの子がいなかったら、多分、もう少し早めにミステリー研究会にも見切りをつけてたかもしんないし。そしたら、駿太郎にもう一度会うことも出来なかったんだと思う。」
駿太郎は、特にミステリーを好んで読んでいた訳ではないけれど、確かにそんな話をよくしていたのかもしれない。ミステリーは手軽なので、何も読むものがないときには大抵ミステリーを鞄に入れていた。
「今、何読んでるの?」
羽田はよくそんな風に話しかけてくれた。それを取っ掛かりにして二人はいつも他愛もない話を続けた。学校の机。ファーストフードの不安定なプラスチックのテーブル。「詩土仁葦」の背の高いアルミのテーブルとハイチェア。
静かな住宅街の坂道に、スニーカーがアスファルトを蹴る二人の足音だけが聞こえた。曲がり角からいっこ手前の街灯がチラチラと揺れて、時折、パッと消えてはまた点灯した。駿太郎は、隣を歩く羽田の手をそうっと握った。
「誰も見てない」
悪戯っぽく笑ってきゅっと手に力を込めると、羽田は嬉しそうに笑って後(うしろ)を確め、それからキュッと駿太郎の手を握り返した。曲がり角まで来て、駿太郎はそっと手を放した。それからまた、周りの様子を伺ってふたりはそっと手をつないだ。
二人が別々に歩んだ卒業後の2年間に羽田が抱いた想いに、あるいはそれが駿太郎以外の誰かに向けた恋心なのだとしても、駿太郎が何か言えた義理ではないと思う。大学の図書館で羽田に会うまで駿太郎にとって羽田は確かに「思い出」になった人間だった。高校で留年して卒業するまでの二年間、一人でいることも多かったけれど大して孤独感を感じないで居られたのは、何かにつけて明るく楽しげに「平賀ぁ!」と声を掛けてくれる羽田が居たからだ。羽田のその労わりにも似た優しさが、友情だと思ったこともないけれど、それは、友情かどうかだなんて考えたこともなかっただけだ。羽田のその気持ちが友情以上の何かだと、駿太郎は自分が「こっち側」の人間なのに気付く事も無かった。卒業寸前の下校時に、羽田が見せた素直な恋愛感情を、あまりにも唐突過ぎて受け取り損ねた駿太郎に、結局は羽田は友情というオブラートに包み直して大事にどこかへ隠してしまった。だから、駿太郎は、高校生活という思い出の中にそっとしまってあるその羽田との一件をただ懐かしく思い出として愛おしんでいたはずだった。それだけのはずだった。
そして、大学生になった駿太郎は得る事など望みも想像もしない相手を想い始めた。友情を振りかざすようにしてその人の隣に居る自分と自分の恋心を思うとき、駿太郎はいつも羽田を思い出したものだ。
「ねえ」
羽田のハイカットが止まった。曲がり角から小さな光が見えて、駿太郎は手を離して道路の端に除けた。二人の脇を原付バイクが通り過ぎる。
「なに?」
「本当になんでもないよ。佐々木さんとは。」
「そんなこと、考えてないよ。知ってるだろ、俺だっ──」
駿太郎の口を塞いだ羽田の手は温かかった。手を解こうと羽田の手を握ると、羽田はその手を引いてほんの一瞬だけ駿太郎に口づけた。それから通り過ぎた原付バイクの小さくなったテールランプを暫らく見守ったあと、もう一度口づけた。
「好きだよ。」
惜しみなく注がれる羽田の恋心。羽田は駿太郎に回した腕にまたぎゅっと力を込めた。抱かれた腕の中で不自由になった腕をそっと羽田の背中に乗せて、
「うん。俺も。」
と、答えた駿太郎の声は少し掠れていた。