先輩上司と秘密の部屋で
鎖骨までの長さの黒髪は、艶々していて指通りが滑らかだ。
祖父の家が理髪店を営んでいるため、見よう見まねで嵐士は杏奈の髪にハサミを入れていく。
やがて歪だった髪型が違和感なく整えられていき、憔悴して縮こまっていた杏奈も、瞳の中に光を取り戻していた。
「あの、黒谷先輩。ありがとうございます……!」
切り終えた直後、杏奈が自分の名前を知っていた事実が判明する。
嵐士は全くと言っていいほど悪い気がしなかった。
むしろ嬉しさで口元が緩みそうになり、必死で堪える。
隼人と一緒にいる時以外に人前で笑うことはあっただろうかと、嵐士自身が一番驚いていた。
その日を境に校内で杏奈とよく目が合うようになる。
だから嵐士も、その姿を夢中で追いかけるようになってしまった。
一方的ではなくなった視線に、嵐士はようやく満足する。
あからさまに逸らされるのがほとんどだったが、男に慣れていない杏奈が照れてそうしていることくらいわかりきっていた。
くすぐったいのに、時にまっすぐで。
欲にまみれた視線ばかり向けられていた嵐士にとって、杏奈のそれは新鮮でますます深みにハマっていった。
逃げられると追いたくなるものだが、嵐士は決して杏奈との距離を詰めようとしなかった。
杏奈が一番の宝物だと話す、親友の姿がいつも頭を過っていたから。