先輩上司と秘密の部屋で
「ち、違う。……私は黒谷先輩のことなんて、なんとも思っていない」
杏奈は躊躇いがちに言葉を発しながら、自分の心に言い聞かせる。
嵐士は杏奈の恩人であり、高校時代ほんの少しだけ、憧れていた人だ。
それ以上でも以下でもない。
それどころか嫌われているとわかって以来、嵐士に近づくのが嫌になってしまった。
いじめられていたせいなのか、自分に敵意を向けるものに対して苦手意識があるのだろう。
だから嵐士と話していると胸が痛くなるし、息苦しくなればつい目も逸らしてしまう。
底知れぬその感情の正体を、杏奈は嵐士に対する恐怖だと思っていた。
嵐士が教育係を名乗り出てくれたのは、隼人の妹だからという理由に他ならない。
ここで暮らしていたのなら、同じ会社で働くことも、隼人から伝え聞いていたはずだ。
「お兄ちゃん……」
すっかり意気消沈してしまった杏奈の頭を、隼人は壊れ物に触れるような優しい手つきで、そっと撫でてくる。
その慈愛に満ちた眼差しに魅入ってしまった杏奈は、後ろから感じる気配に気づくのが遅くなってしまった。