ハニーと吸血鬼(ヴァンパイア)
第1章

第1話

 チカチカと淡く瞬く星たちが夜空を彩る素敵な夜。
 疲れた体に鞭打ってシャワーを浴びた私は、少しだけふわりと和らいだ体をベッドに横たえた。
 カーテンの隙間から溢れるのは月明かり。
 明日もまた忙しい一日が待っている。
 今夜はゆっくり眠って疲れを癒そう。
 誰に言うともなく「おやすみなさい」と呟いて、私はゆっくり瞼を閉じた。
 すぐにゆっくりと意識が溶け始めて、白い世界へ導かれていく。
 すると漂ってきた瑞々しい白桃のような甘い香り。
 何だろう。
 でもとってもいい匂い。
 柔らかい何かが唇に触れる。
 え?何?食べてもいいの?
 誘われるように口を開くと、再びさっきと同じ感触のする何かが私の唇を優しく覆った。
 あれ…?果物じゃないの…?
 ちょっと残念だけどしょうがない。
 柔らかい何かはずっと私の唇をマッサージし続ける。
 そのうち口内に薔薇の香りが混ざった甘い蜜が注がれた。
 これは、何…?
 頭の中がふわふわして気持ちいい。
 さっきまでどんより重く感じられた体も、少しずつ軽くなっていくみたい。
 不思議な夢。
 何度も唇に刺激を与えられて、甘い蜜をこくこくと喉へ下し、何とも言えない軽やかな浮遊感を味わっていると、今度は何故か胸の奥がぎゅっと締め付けられたように疼き始める。
 まるで抗えない何かに強く惹かれているときのような、切ないような胸の痛み。
 どうしてこんな気持ちになるの?
 もうすっかり昔に忘れた甘酸っぱい感覚。
 何がそれを呼び起こしているのか、寝ぼけている私には全然分からない。
 でも夢ならいいよね。
 このまま朝までこの感覚を味わっていたい…。
 そんな風に、夢の世界にとっぷり浸っていた、はずだったのに。
「イケナイ子ね。もっと欲しいの?こんなに甘い匂いをさせて」
 突如聞こえた低く艶やかな女性(?)の声。
 耳元に吐息まで感じてくすぐったくなる。
 思わず肩をすくめたら、今度はチュッと軽いリップ音がして。
 え?え?え?
 驚いて目を開けようとしたけれど、何故か体が動かない。
 瞬き一つできない状態で、一体目の前に誰がいるのか確かめられない。
 あなたは、誰?
 そう問いかけたくても声も出ない。
「焦らないで。息は吸えるわ。ゆっくり呼吸するのよ」
 女性の声に導かれて、試しに深く息を吸い込んでみた。
 あ、吸える。
 今度は肺から酸素がなくなるまで息を吐き出してみる。
 はあ…。
「上手よ。さあもっと味わって。アタシの蜜よ」
 アタシの蜜…?
 浮かんだ疑問を問う間もなく、やわやわと、今度はさっきよりもしっかりとした強さで唇をマッサージされながら、口の中に注がれる蜜を飲み込む。
「気持ちいいでしょう?もう大丈夫かしら。アタシ割と痛くないって評判なのよ。でも今回は念入りにしなきゃね。この滑らかな肌に痕が残ったら悲しいもの。ちょっとずつやるから、怖がらないでね」
 痛い?アト?怖がる?
 何のこと?何をしようとしてるの?
「あら?起きたの?まさにアタシのハニーちゃん?」
 夢現の私は無意識に何度かとろりと瞬きをしていたらしいけれど、そんなこと覚えていない。
 だってさっきからずっと意識がどろどろしてるんだもの。
 このまま溶けちゃいそうなくらい体中がくったりしていて、ただ心地よく誰かの声が耳元で響くだけ。
 それも囁かれているせいで相当くすぐったいのに、耳の奥がやたらとその感覚を追いかけていて、多分気持ちいいんだ、って理解した。
「そう。ハニーちゃんは耳が弱いのね?ふふっ、じゃあ、こうしたらどう?」
 ふー
「ひ、あぁっ」
 耳のずっと奥まで優しく吐息でなぞられて、最高にくすぐったくて、でもそれだけじゃなくて、思わず身じろいだら
「カワイイ」
 相手の心底嬉しそうな呟きが聞こえた。
 何て甘い声。
 内耳を通して体の奥まで響いてくる。
「ね…もうガマンできないの…。ハニーちゃんをちょうだい。ね?」
 ハニーが欲しいの?
 それなら多分今日採取したばかりのものがキッチンにあるはず。
 欲しいならあげるわ。
 きっと美味しいと思うの。
 一番美味しい食べ方は、固めのパンを焼いてバターを薄く塗って、そこにかけるのよ。
 バターの塩分とパンの香ばしさでコクが増すの。
「あらん、いい事教えてくれてありがと。でもアタシが欲しいのはそっちじゃないのよ。アナタが欲しいの。なんならアナタに塗ってもいいのよ?」
 私?私にハニー?
 私が欲しいの?
 随分変わってるのね、貴女。
「貴女じゃなくてむしろ貴方なんだけどぉ、まあそれは置いといて。ねぇ、さっきの、気持ちよかったでしょ?ここにもっと触れて気持ちよくしてあげる。だから代わりにアナタをちょうだい」
 誰かの指先がふくふくと下唇に触れる。
 そんなことされたら、さっきまでのマッサージを思い出しちゃう。
 今でもまだじんわり痺れているっていうのに。
 ん、でも、耳も唇もどっちも気持ちよかったわ。
 私をどうやって「もらう」のか分からないけど、マッサージならまたして欲しい。
「いいわよ。たっぷり可愛がってあげる。だからちょっとだけガマンしてね?チクッとするだけだから」
 ぼんやり膜がかかった意識の向こう側でそう囁かれた気がした。
 直後、首筋に柔らかな円形の何かと、チクッとした刺激。
 その部分から体の中にある何かを吸い上げられるような感覚が広がって、でもそれが妙に心地よくて。
 何故か心臓がきゅんと跳ねた。
 最後にチュッと音がして。
「んっ、最高…ッ。大好きよ、ハニーちゃん。また会いましょ」
 とどめは首筋をぺろりとひと舐め。
 んー、変なの。
 何だかやたらと現実味のある感覚なのに、相手が誰なのかさっぱりわからない。
 開けようと思っても開かない瞼を思えば多分夢なんだろう。
 でもこんなに詳細で鮮明な夢ってあるのかな。
 私は暢気にそんな事を考えながら、今度は白い景色に意識を溶け込ませていく。
 今度こそ深い眠りに陥ったらしかった。






 翌朝、鈍くて気だるい体をぐっと起こして伸びをすると、不意に鏡に視線が移った。
 あれ…?
 首筋が赤い。
 指先でそっと触れれば、途端昨夜見た不思議な夢が走馬灯のように蘇る。
 まさか、ね。
 多分寝ている間に虫にさされたのかも。
 そう納得してみる。
 けれどふわりと花をくすぐる白桃のような香りに一瞬だけ、心臓がドキリと跳ねた。
 この香り…一体…どういうこと?
 いくつも疑問符が浮かび上がってくる。
 でも考え込んでいる暇なんてなかった。
 いつもならコンコンと丁寧なノックが二回されるはずの朝。
 よりによって聞こえてきたのはダダダダダダダダダと何かが爆走する音で。
 それは私の部屋の前で急停止した。
「お嬢様!!大変でございます!!」
 この声はメイド長のブランシュだ。
 普段から冷静沈着な彼女がこんなに大慌てなのは珍しい。
「どうしたの?」
 と扉を開ければ、弾丸の如き勢いで部屋へ駆け込み、私の両腕をがしっと掴んだ。
「た、大変でございます!!」
「何があったの?」
「お、お、おじょ、おじょっ」
「?」
「お嬢様がご結婚なさいます!!」
 元々大きくて力強い瞳をこれでもかと見開いて、ブランシュが訴えてくる。
 あら。
 そんなに慌てるような内容?
 ご令嬢の結婚なんてこの辺りじゃよく聞く話だ。
 我が家は例外として。
 でも、ブランシュはすぐに私の体をありったけのちからでグラグラと揺らし始めた。
「ちょ、ちょっと、ブランシュ?どうしたの?」
「どうしたのじゃありませんよ!一体どこのご令嬢の話だと思ってるんです!?あなたですよ、あなたなんです、お嬢様!!」
「え?」
「ですから!ご結婚なさるのはあなたなんです!!ミエルお嬢様!!」
「え、ええっ!?私!?私が結婚!?誰と!?」
「それが聞いてびっくりでございます!何とッ、かの名門アズナヴール公爵様とでございますよ!!」
「ア、アズナヴール公爵って…」
 名門中の名門、歴史は古く千年以上前から続く旧家で大財閥。
 深く国政と関わり隣国との交渉から他の大陸との貿易まで手広く行う名門、確かアズナヴール家は数ある名門貴族を束ねる大貴族だったはず。
 そこの公爵様と私が?
 結婚?
「ちょっとブランシュ、変な冗談はやめてちょうだい。あの公爵様がこんな片田舎に住んでる名前ばかりの子爵令嬢なんて相手にするわけないじゃない」
 しかも25歳をすぎて今だ独身でいる行き遅れ娘と結婚するって?
 大体会ったこともないし姿を直接見たこともないのよ?
 向こうだって同じはずだし、アズナヴール公爵っていったらその名前だけでも女性がごまんと集まってくる人よ。
 もう月と鼈、天と地ほどの差があるっていうのに、まったく困った冗談だわ。
 今日って何の日?エイプリルフール?
 そんなわけないわね、だって今は葡萄の収穫真っ只中だも…
「残念だけど、冗談じゃないんだな、これが」
「え?」
 聞き覚えのある声が背後からした。
「私は本気だよ?だからこうして朝一でアナタのお父様にお許しをもらいに来たんだ。お義父様ったら泣いて喜んでくださった」
「う、そ…」
 ひやり、と背中に嫌な汗が伝う。
 ちょっと待って、あれは夢だったのよね?
 そうよ、夢だったはず!
 おかしい、夢の中と同じ声がした。
 しかも口調が怪しい!!男っぽく喋ってるはずなのに、ちょいちょいおかしい。
 まさか…。
「せーかい!その、ま・さ・か!ちゃんと覚えてたなんてエライぞー。いい子いい子しちゃおう」
 なんて上機嫌で私の頭をかいぐりかいぐり。
 しかも細身の腕でしっかりぎゅーっと抱きしめて、まるで子犬でも可愛がるみたいに撫で撫で撫で撫で。
 何だ?何なんだ?
 この人誰よーッ!!
「アタシ?私はシルヴェストル・アズナヴール。シルヴィって呼んで…くれ」
 シ、シルヴィ?
「いいの、だ、よ」
 あ、やっぱり口調が揺らいでる。
 本当にシルヴィって呼んでいいのかしら。
 両目を細めて訝しむと、コホン、と咳払いを一つしてシルヴィ様は言う。
「我が家はミステリアスなところが魅力なの、だよ」
 ミステリアス通り越して「怪しい」けどね。
 なんて心の中で突っ込んでみたら
「あーもー、お願いだから納得して。気になるだろうけど突っ込まないで。いいからさっさといらっしゃ、じゃなかった、さっさとついておいで」
 焦れったいのか慌てているのか、どちらともつかない様子で私の手首をひっつかんでドアの方へ強引に連れて行く。
 「いらっしゃい」から言い直しても「ついておいで」なんだ。とか、どうでもいい所に突っ込んでから、ハッとして抵抗を試みたけれど、振り返った切れ長の涼しい瞳に有無を言わさぬ力強さを見せつけられて、にんまり微笑まれた。
「無駄な抵抗は一切しないこと。私との毎日は気持ちいいよ?」
「えっ?」
「ハニー、ちゃん」
「ひゃあっ」
 耳元で最大級に色っぽい吐息と声で囁かれたらもう、すっかり腰砕けの私はお姫様抱っこで連れ去られるだけなのだった。






 続く
< 1 / 13 >

この作品をシェア

pagetop