桜まち
会社に着き、半ばスキップ状態でフロアに入ると、櫂君が私の顔を見た瞬間にぷっと笑った。
「ちょっと、櫂君。人の顔見て笑うなんて、失礼じゃないのよ」
「いや、ごめんなさい。だって菜穂子さん、口紅が」
そういって、櫂君は私の口元に指を伸ばし、撫でるようにしてひと擦りする。
どうやら満員電車のせいで、口紅が唇の端からはみ出してしまっていたらしい。
きっと、サンドしてきたどこかのサラリーマンのスーツには、私の口紅がばっちりくっついていることだろう。
既婚者ならもめる原因だな。
すまん、すまん。
櫂君は、伸ばした指先で私の髪の毛も梳き、整えてくれた。
「これで、大丈夫」
にこりと笑うと、改めておはようございます。と朝の挨拶をしてよこす。
「うん。おはよ」
直してもらった口紅と髪の毛を、引き出しにしまってある手鏡で確認してみる。
「大丈夫ですって。ちゃんと直ってますから」
「うん。そうだね、ありがと」
櫂君に言われても、鏡を出して確認するのは、一目惚れさまに再び逢ってちょっと色気づいてしまったから。
「なんですか、急に。いつもと変わらないですよ」
「うーん。あのさー、口紅の色とか変えてみようかな」
「なんでですか? その色、似合ってると思いますよ。僕は好きです」
「うーん」
「あ、もしかして。一目惚れの人に又逢ったりしたとか……?」
あら。
なんて鋭い勘。
「そうなのよ、櫂君。偶然とは、もしかしたら運命の始まりかもしれないよ」
大袈裟な私の話に、櫂君は頬を引き攣らせている。
「同じ時間の同じ車両に乗れば、明日も彼に逢えるかも」
むふふ。と笑いを零せば、はい。仕事してくださいねー。と今日もじゃんじゃんお仕事がまわってきた。
櫂君の容赦ないお仕事してください攻撃を素直に受け入れ、今日も私は黙々と机に向かうのでした。