桜まち
「菜穂子さんちまでおくりますよ」
「え? いいよ。私そんなに酔ってないし」
「いいんです。僕がそうしたいんです」
「そうなんだ」
そういって横に並ぶ櫂君に、私はなんだか嬉しくなった。
自宅の最寄り駅を降りて、商店街の通りをゆっくりと歩いた。
櫂君と肩を並べて歩くことなんて今まで何度もあったけれど、今日の私はとても穏やかな気持ちだった。
櫂君という存在に、気持ちがいい意味でフラットになっている。
その波風も凸凹もないような心の状態に、とても安心していた。
「そういえば……。そのー、お隣の望月さんとは、その後どうですか?」
櫂君から急にそんなことを訊ねられて、フラットだった波形がびょんっと飛び上がる。
瞬間。
昨日のキスが脳裏を過ぎって、胸が苦しくなってしまった。
櫂君だって、望月さんの話は訊きたくないって言っていたのに、どうしてこのタイミングで訊いてくるんだろう。
言葉を探すように、私は黙りこくってしまう。
「もしかして……何か……ありましたか……」
櫂君が不意に立ち止まる。
変なところがバカ正直な私は、何にもないよ。なんて平気な顔もできず、かと言って、キスしちゃった。なんて笑い話で語ることもできずに言いよどむしかない。
「えっと……。少し、時間もらえるかな。なんて言うか、今はうまく櫂君に話せない気がするから……」
俯いてしまった私のことを見つめているのか、櫂君は少しの間身動きしなかった。
その空白の時間に、やっぱり話さなきゃ駄目かな、そう観念しそうになった頃。
「わかりました……」
櫂君が静かに口にした。
その返事に私はほっとする。
今望月さんとしたキスのことを話してしまったら、どうにも泣き出しそうな気持ちになっていた。
どうして泣きそうなほどの感情がこみ上げてくるのか、わけがわからないけれど、櫂君がそれ以上何も訊いてこないことに心底安堵していた。
マンションのエントランス前まで、櫂君は送ってくれた。
「送ってくれてありがとう。あと、お酒も。また、明日ね」
「はい。また、明日」
私に背を向けて一二歩行ったところで、櫂君が振り返った。
「あの、菜穂子さん。僕――――」