桜まち
深夜のマンションは、管理人さんもいなくてとても静かだ。
時折、設置されている自動販売機が静かなモーター音を上げる。
無駄に明るい蛍光灯の光だけが、チカチカとやけに目に沁みた。
「前にさ、桜の話したのを憶えてるかな?」
望月さんはエントランスの壁に寄りかかるようにして立つと、そう話し始めた。
桜といえば、あの三階の渡り廊下で聞いた、桜の思い入れの話だろうか。
私は、曖昧に頷きを返した。
「俺、桜に惹かれてこの町に来たんだけど。その理由が、実は前の彼女と関係があるんだ」
元カノ?
もしかして、ラーメン屋さんで少し話してくれた、大学時代の彼女のことかな?
「彼女とは、桜で始まり、桜で終わった。彼女を初めて見かけたのが、この街のように桜並木のある場所だったんだ。散り始めた桜吹雪を手のひらで受け止めるようにして右手を差し出している、そんな彼女の姿を見たら、川原さんじゃないんだけど一目惚れしちゃってさ」
望月さんは、そういうと当時を思い出しているのか照れくさそうにしている。
「名前も知らない女性を好きになるなんて、ないだろう。って自分でもおかしくなるくらいだったけど。その後直ぐに、同じ大学で彼女にもう一度逢うことができた時に確信したんだ。その後は俺の猛プッシュで、彼女があれこれ迷う前に、恋人っていう形を作った。それが、桜の木の下だった。彼女とは、長い時間を一緒に過ごしたけど、結局大学卒業という分かれ道で、納得した上でさよならをしたんだ」
「まだ、好きだったんですよね……?」
私の問いかけに、望月さんは頷く。
「どうしてですか? 卒業しても、お互い好きなら――――」
「彼女、留学が決まっていてね。いつ日本へ帰ってくるか、解らなかったんだ。彼女は、待っていて欲しくないって。俺は、そんな彼女の意思を尊重したんだよ」
「そんな……」
「尊重なんて、かっこよく言ったけど。結局は未練だらけだった俺は、彼女と思い出深い桜の木を求めてこの町に居座っているってわけ。桜のそばにいることで、彼女を感じられる気がしていたんだよ」
おどけたようにして話しているけれど、その表情は少し悲しそうだった。
望月さんは、桜にその彼女を重ねてずっと思い出の中で生きてきたのかな。
だとしたら、寂しいよね。