桜まち 


三駅ほど過ぎたところで、彼が下車した。
スマホを見ているふりをして観察を続けていた私も、慌ててそのあとを追う。

つかず離れず、愛しの彼の後を追って行くと、彼は足早に人の波をすり抜けて大通りをいく。
途中、信号を渡るために横断歩道で止まったのを機に、ススッと斜め後ろに陣取った。

かれこれ駅から五分ほど経つ。
多分会社に向かっているんだろうと思う。
この時間にスーツで他の場所に向かうなんて、なかなかないだろうしね。

信号が青にならないなぁ、なんて、彼の背中を眺めていたら、同僚らしき男性が“よおっ。アツヒロ”と気さくに彼へと声をかけた。
さっきまで黙々と歩を進めていた彼の表情が瞬時に緩む。

ああ、なんていい笑顔。
名前は、アツヒロさんというのですね。
素敵なお名前ですぅ。

棚ぼたながらも、名前を知ることができて一歩前進。
ここからだと横顔しか窺えないけれど、白い歯が朝の清々しい青空に映えている。

その素敵なスマイルに、乙女心をキュンキュンさせて見つめていると、彼が不意にこちらを振り返った。
だらしなく崩れた笑顔でガン見していた私は、まさか振り向くなんて思いもしてなくて、彼を見たまま固まってしまう。

うっ……。

頬は引き攣るものの、今更目を逸らすのもなんだか不自然でちょっと微笑んでみたんだけど。
引き攣った頬が邪魔をして、にやっと不敵な笑みになってしまった。

そのせいか、愛しの彼のナイススマイルがあからさまに曇ってしまう。
いや、訝しんでいるといっていいだろう。
怪しい女が見ていると思っただろうか。

信号が青になると、彼はすぐに前を向き同僚とスタスタ歩き出した。
私は、さっきのニヤついた顔のこともあってすぐに追うこともできず距離をとる。
すると、横断歩道を渡って直ぐの棒有名大手会社のビルへと、彼は同僚と共に入っていってしまった。

「もしかして。ここに勤めてるの?」

大きなビルを見上げていると、そのまま後ろに倒れそうになってしまうくらいだ。

「エリートかいな」

分不相応?

間抜けに口を開けたまま、私はしばらくそのビルを眺めていた。



< 29 / 199 >

この作品をシェア

pagetop