君と私を、夜空から三日月が見てる
東郷さんはウェストバックからマスクを二枚取り出して、一枚を私に渡し、一枚を自分でつける。
次に、使い捨てのゴム手袋を取り出して、それもまた私に渡してくれた。

「まずそれをつけて、嘔吐物処理は、例えば、嘔吐の原因がウィルスや細菌であったときに、自分が感染しないために予防としてマスクとゴム手袋を付ける。
自分が感染しないということは、他人にも感染させないということだ。
これは嘔吐物処理の基本だ。
これから、マスクとゴム手袋は常備しておくように」

「は、はい!」

「次の注意点は血液だ。
血液も嘔吐物も、絶対に素手で処理しないように。
他人の血液に触れることで、そこからエイズやC型肝炎などに感染するといったことも、絶対にないとはいいきれない。
この二つを踏まえて、処理に入る。ついてこい」

「はい!!!」

冷静沈着で力強い東郷さんの言葉に、なんかちょっと安心して、私は、男子トイレの洗浄にかかった。
壁も床もひどい有様!
東郷さんは、腰に下げていた薬剤のスプレーボトルを取り出して、それを血液や嘔吐物にかけて回る。

「これは塩素だ、ますこれで殺菌滅菌をする。巡回清掃の際は、必ず塩素も常備しておくように」

「はい!」

東郷さんは手早く使い捨てペーパーを箱から何枚も引き出して、さっと汚物にかけてまわる。
その上からまた塩素をまき、周囲の壁にも、そして床にもまいていく。

「長谷川くん、床の嘔吐物をまずペーパーでふき取るようにして、それをそのままこれに入れてくれ」

「は、はい!」

東郷さんが、ビニールを二重にしてかぶせたバケツを私に差し出したので、私はそれを受け取り、塩素がかかった汚物をふき取るようにしてその中に放り込んでいった。

東郷さんは、すばやく血液にも塩素をまいてさっとペーパーでふき取っていく。
片手でさっとペーパーを抜き出して、すばやく機敏に嘔吐物を覆い、さっとバケツに放り込む仕草はほんとに手馴れていて迅速。
悪臭は塩素の消毒臭気に変わり、おえってなることもをなくなってきた。

全部の嘔吐物、血液を処理し終えたのはそれからたった10分後だった。
最後に床と壁にさっと塩素をまいて、そして、自分たちの靴の裏や服などにもさっと塩素をスプレーし、あのすさまじい惨劇はあっというまに清潔なトイレの風景へと逆もどりしたのだ!!

東郷さんは手袋とマスクをはずして、さっとビニール袋にそれをいれる。
私も、あわててマスクと手袋をはずして、同じく、ビニール袋に放り込んだ。
その袋をぎゅっと強く結んで閉じながら、さっときびすを返し、東郷さんは橋本さんに言った。

「清掃完了です。トイレ使用可能です」

橋本さんは、かるく「おー!」と叫んで、そのあとにっこりわらって私たちに言うのだ。

「お疲れ様でした。いや~・・・あの惨状が、あっという間に元にもどったね。ありがとう」

「いいえ、仕事ですから」

そう答えると、東郷さんは軽く橋本さんに会釈してすっと売り場のほうへ歩いていってしまったのだ。

「橋本さん、お疲れ様でした!」

私はそう橋本さんに挨拶すると、慌てて、そんな東郷さんの広い背中を追いかけたのだった。




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